東雲製作所

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感動させたい時は感情移入させろ。笑わせたい時はさせるな。

(本稿は『鬼滅の刃』等のアニメのネタバレを含みます。)

海燕氏が「オタクは女の子になりたがっている? 「ポスト性同一性障害男子」は「政治的に正しい自慰」の夢を見るか。」という記事を書かれていた。

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海燕氏は「フィクションのなかの女性に自己同一化したりしない。それをいうなら、男性に自己同一化もしない。ただひたすら眺めて楽しむだけ。」なので感覚がよくわからないが、事実として作中の女性になり切って作品を楽しんでいる百合男子が増えており、その背景には男性性への嫌悪があるのではないかと考察されている。

私はアニメを見る時に、しばしばキャラクターに感情移入する。私が作中の女性キャラに感情移入して見る場合、そのキャラの中に性別と関係なく共感できるポイントがあることが多い。

例えば『ぼっち・ざ・ろっく』の場合、コミュ障な部分に共感できる主人公ひとりに感情移入して見ていた。
ひとりに感情移入して見ている男性オタクの多くは、必ずしも女の子になりたいと思っているのではなく、ひとりのコミュ障部分に共感し、自分もひとりのように受け入れてもらえる居場所がほしいと思って見ているのではないか。

私の場合、アニメを作中のキャラに感情移入して見ている時と、誰にも感情移入せずに外から見ている時がある。そこで、好きなアニメについて、自分がどういう時に感情移入し、どういう時に外から見ているか考えてみた。


ゆるキャン△
基本的に、集団行動が苦手という部分に共感するしまりんに感情移入して、「なでしこ優しい! なでし可愛い! 好き好き大好き!」と思いながら見ている。
しまりんが出てこない時は概ね外から見ている。
だが、しまりん格好良い!とか思うこともあるので、しまりんに完全に自己投影している訳ではない。


鬼滅の刃
主人公の炭治郎に感情移入して見ていることが多い。ヒノカミ神楽の時などはシンクロ率100%になっていた。炭治郎は素直な良い子なので感情移入しやすい。主人公は視聴者が感情移入しやすいよう優しい善人にしろというのは娯楽作品を作る上での鉄則だ。
ただ、他のキャラを掘り下げるエピソードの時はそのキャラに感情移入して見ていることも多い。
例えば遊郭編の妓夫太郎が過去を回想して堕姫に別れを告げた時は妓夫太郎に感情移入して見ていたし、蜜璃の過去を掘り下げた時は蜜璃に感情移入して見ていた。


SPY×FAMILY
基本的に誰にも感情移入せずに外から見ている。主要キャラがスパイと殺し屋と超能力者で、感覚も常人とは異なっているので、感情移入しづらいキャラクター造形になっている。
ただ、アーニャがロイドの命を助けるために頑張るような感動的なエピソードの時は、ある程度アーニャに感情移入して見ている。完全に感情移入しているというよりは、見守っている、応援しているという感覚の方が強いかもしれない。


ぼっち・ざ・ろっく
私もコミュ障なので、主人公のひとり(ぼっちちゃん)に感情移入しまくって見ている。私なんかが参加して良いのかなと思っている間にタイミングを逃すといったコミュ障あるあるが描かれており分かりみが深い。
基本的にひとりの奇行を笑うギャグ漫画なのだが、分かりみが深すぎて笑えない部分がある。自分のことを笑うのは難しいからだ。ギャグとしてはそのキャラを外から見ている方が笑いやすい。


吸血鬼すぐ死ぬ
登場キャラ達のアホな行動を外から見て、ゲラゲラ笑っている。ただ、キャラクターの行動原理が全く理解不能なのではなく、エロの欲望に負けるみたいにある程度共感できる方が笑いやすい。
ラルクとジョンの出会いのようなたまにあるシリアスなエピソードの時は感情移入して観ている。ジョン可愛いよジョン。


チェンソーマン
誰にも感情移入せずに外から見ている。主人公のデンジは本能のおもむくまま行動するような型破りな性格で、出自も特殊なので感情移入しづらい。基本的に外から、破天荒なキャラ達の行動や、予想外の展開に驚きながら見る作品だ。
ただ、不意に、自分とは全然違うはずのデンジとも共感が発生することがある。生死のような根源的なことを描けば、共感しづらいキャラにも感情移入させることができるということが分かる。


いくつかの作品について感情移入して見ているか振り返ってみた結果、以下のことが分かった。
視聴者を感動させたい時は、キャラクターに感情移入させた方が良い。感情移入させた状態でキャラクターの感情を動かせば、視聴者の感情も動かすことができる。
逆に視聴者を笑わせたい時は、笑う対象のことを外から見ていた方が笑いやすいので、視聴者に感情移入させない方が良い。

例えば、『鬼滅の刃』の善逸が女好きなあまり暴走している時は、視聴者が共感できず引くぐらい極端な行動を取らせている。視聴者は善逸を外から見ているので、気持ちよく笑うことができる。
逆に、那田蜘蛛山で過去を回想している時は、臆病で不器用で、師匠の期待に応えたいのに上手くいかないという視聴者が感情移入しやすい一面を提示している。視聴者は善逸に自己投影して観ているので、霹靂一閃六連が決まった時は、自分の長年の努力が報われたかのような強いカタルシスを感じるのだ。