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劇場版「鬼滅の刃」無限列車編感想――やり場のない悲しみが観客を駆り立てる

(本稿は『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の抽象的だがあからさまなネタバレを含みます。またTVアニメ版の具体的なネタバレを含みます。)

11月1日に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(原作:吾峠呼世晴、監督:外崎春雄、アニメーション制作:ufotable)を観てきた。18時台には3スクリーンで上映していたが、どれもほぼ満席だった。
隣席の女学生は漫画を読んで展開を知っているらしく、グロいシーンが近づくと「やだー」と言いながら手で視界を遮っていたので、私も身構えることができた。


炭治郎が健気に頑張るシーンで涙がこらえきれず、三、四回泣いてしまった。また、ギャグも切れており、善逸と伊之助のしょうもない欲望が駄々漏れになっている所など何度も笑った。
私は善逸と伊之助が出てくる前のシビアな雰囲気の方が好きだったのだが、映画を見て彼らの存在は不可欠であると考えを改めた。シビアで悲しい物語の中にあって、善逸と伊之助のギャグはほっと一息つける安息の場所を提供してくれていた。

個々のシーンは素晴らしく、感情が大きく揺さぶられたが、見終わった後の満足感は低かった。
単純な問題として娯楽映画は悪者を叩きのめして終わって欲しい。何でこんな観客の感情がどーんと落ち込む所で終わるのか。『君の名は。』で言えば、瀧が彗星落下跡で呆然と立ちすくんだ所で終わるようなものだ。
これが原作ものの難しい所で、映画オリジナルだったら、絶対こんな脚本にはしなかっただろう。漫画だと一巻単位でカタルシスがなくてもさして気にならないが、映画は作品内でひとまとまりという感覚が強いので、最初に提示された課題が解決されてスッキリ終わって欲しいのだ。

本作を無限列車の乗客を守るミッションとして見れば、課題と解決という応答が含まれてはいる。
だが、終盤の敵は乗客を喰うために登場した感が薄かった。「だらしのない奴め。代わりに俺が乗客を一人残らず喰ってやろう」とか言って登場し、実際に乗客の手足を喰ったりしていれば、もうちょっと印象が違ったのかもしれない。

TVアニメの「ヒノカミ」は神回との呼び声が高いが、あれは見事に難敵を打ち倒した所で終わるからだ。圧倒的な力を持っている憎たらしい敵を倒したから、最上級のカタルシスが得られたのだ。実は打ち倒せていませんでしたという所までで終わっていたら神回にはならなかっただろう。
映画も下弦の壱との戦いが終わった所で終わりで良いじゃないか。このやり場のない悲しみをどうすれば良いのか。


ただし、鬼滅の刃というコンテンツ全体で見ると、これは上手い手法である。
以前、『銀河鉄道999』と『宇宙戦艦ヤマト』に関する論考を読んで感心したことがある。両者は同じ程度ヒットしていたが、前者の映画はスッキリ終わって観客が満足したためあっさりブームが収束したのに対し、後者の映画はグダグダになったので、観客が満足せず、ブームが長持ちしたと言うのだ。

本作でも同じことが言える。もし映画がスッキリ終わっていたら、観客はあー面白かった! と満足してしまい、多くが他の作品に移ってしまったかもしれない。
だが、鬼滅の刃無限列車編を観た観客はやり場のない悲しみを抱えることになるので、何とかしてこの欠落を埋めたいという欲求に駆られ、原作コミックスや今後作られるであろう続編アニメを強く求める。

本作で炭治郎は常に「自分は何て力不足なんだ」と言う想いに駆られ、強くなっていくが、観客もまた、満足感が足りない、全ての鬼を駆逐して私を満足させてくれ、と言う想いに駆られてコミックスを買い求めるのだ。

 

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