(本稿は『ゆるキャン△』と『鬼滅の刃』のネタバレを含みます。)
ゆるキャン△SEASON3を観ると心身ともに癒される。見終わると、ゆったりお風呂に浸かった後のように、心も体もすっきりしている。こんな感覚になるアニメは他にない。
なぜゆるキャン△を観ると癒されるのだろうか。
まず、思いつく理由は内容が牧歌的なことだ。特に、キャラクターがみなのんびり話しているのが大きい。彼女達のゆるい会話を聞いているだけで、心がほっこりする。
だが、最大の理由はゆるキャン△が読者の心を揺さぶるための物語技法を使っていないからではないだろうか。
1.ゆるキャン△は読者の心を揺さぶるための物語技法を使っていない
物語は読者の心をより大きく、より強く揺さぶるために長年かけて練り上げられた技術体系だ。
読者の心をより大きく揺さぶるための物語技法には様々な種類があるが、ここではサスペンス、オブセッション、抑圧→解放という三つの技法を取り上げる。物語技法を十全に使って読者の心を揺さぶっている『鬼滅の刃』と比較して、『ゆるキャン△』がこれらの技法をほとんど使っていないということを示したい。
1)サスペンス
サスペンスとは物語中の危機によって読者をハラハラさせる技法だ。
鬼滅の刃では、重要な柱を戦死させたことで、後の戦いでもまた重要キャラが死ぬのではないかというハラハラ感を高めることに成功している。
ゆるキャン△の場合、リンと綾乃が危険な畑薙大吊橋を渡るシーンでも、誰も二人が吊り橋から落ちて死ぬかもなどとは思わない。過去のエピソードの積み重ねによって、ゆるキャン△は人が死んだり、回復不能なトラウマを負ったりするような作品ではないと読者が安心しきっているからだ。
2)オブセッション
オブセッションとは主人公が目的を達成できないと失われる大きなものを設定することで、主人公の闘争の重要性を増す技法を指す。
例えば鬼滅の刃無限列車編では、炭治郎達が鬼に敗北すると列車の乗客の命が危ないという設定を加えることによって、戦いの重要性を増している。
ゆるキャン△の場合、主人公達が目的を達成しなくても失われるものは何もない。畑薙湖を目指してツーリングを行っているリンと綾乃が畑薙湖に到着できなくても、何ら不都合はない。彼女達は畑薙湖に行きたいから行っているだけだからだ。
3)抑圧→解放
主人公を外部要因によって抑圧することで、抑圧が解放された時のカタルシスを高める手法。物語の基本構造は抑圧→解放と言っても過言ではない。
鬼滅の刃の面白さの肝は抑圧→解放のカタルシスだ。例えば、那田蜘蛛山で炭治郎は圧倒的力を持つ累から精神的にも肉体的にもボコボコに痛めつけられ、ぎりぎりまで追い込まれる。その抑圧が強烈なので、「俺と禰豆子の絆は誰にも引き裂けない!!」と叫んで抑圧から解放されるシーンですさまじいカタルシスを得られるのだ。
ゆるキャン△の場合、登場人物は好きなことしかしないので何も抑圧されていない。リンは野クルメンバーとキャンプをすることもあるが、サークルに縛られたくないので、決して野クルには入部しない。部活ものなのに、主人公の一人がいつまでも部活に入部しない作品が他にあるだろうか。
俺TUEEE系作品は抑圧をとことん短く、軽くすることで読者のストレスを軽減しているが、ゆるキャン△はそもそも抑圧がないのだ。
このように、ゆるキャン△には読者の心を揺さぶるための物語技法がほとんど使われていない。
心が物語によって作為的に揺さぶられないからリラックスして見ることができる。
従来の物語論では、読者の心は強く揺さぶれば揺さぶるほど良いとされてきた。
だが、物語技法は読者に強い面白さを味わわせる反面、心に負荷をかける。読者がリラックスするためには、物語技法は邪魔なのだ。
2.ゆるキャン△の面白さはディティールの面白さ。
リラックスのために物語技法が邪魔だとしても、物語技法を使っていないフィクションは珍しい。物語技法によって読者の心を揺さぶる以外の方法で、読者にフィクションを面白いと思わせるのが難しいからだ。
ゆるキャン△はディティール(細部)の面白さを積み重ねることで、作品全体を面白くすることに成功している。
ゆるキャン△の魅力的なディティールは色々あるが、ここでは観光情報としての面白さ、キャラクターの面白さの二点を指摘したい。
1)観光情報としての面白さ
ゆるキャン△は原作者のあfろ氏が舞台となる場所を綿密に取材して書かれているので、知らない場所を知る楽しみがある。アニメではさらに追加取材をして背景を描きこんでいるので、実際に舞台となる場所に行ったかのような臨場感がある。
特に今回アニメ化された大井川編はキャンパー以外にも人気の観光地なので、アプト式列車、奥大井湖上駅、畑薙大吊橋など珍しいものが満載で、観光情報だけでも面白い。
ゆるキャン△はそれに加えて、吊り橋かと思ったらただの電線だったみたいな通常の観光情報では省かれてしまう、行った人にしか分からないことが描かれているのが楽しい。
ゆるキャン△を見ていると、「面白い≒解像度が高い」だということを痛感する。小説読本にはしばしば「良く知っていることについて書け」というアドバイスが書かれているが、良く知っていることは解像度高く描けるからだろう。
2)キャラクターの面白さ
ゆるキャン△のキャラクターは非常にキャラが立っているにも関わらず、実際にいそうなリアリティがある。なでしこが山梨に引っ越してくる前は、リンと恵那、千明とあおい、なでしこと綾乃が友達だったわけだが、どの組み合わせも非常に納得感がある。
特に好きなのは会話やLINEによるキャラクター達のやり取りだ。
「今日はなでしこちゃんの地元の友達と井川の秘境まで全開バリバリツーリングするんだって?」「いつの言葉だよ」
「キャンプ場につくまでがキャンプですよ。」「ついてからは何なんだよ。」
のように、キャラクターの交わす会話劇はウィットに富んでいてとても面白い。
このように、ゆるキャン△には1)の現実と2)のフィクションの二重のレイヤーがあり、両方の面白さを重ねることで、物語技法による揺さぶりの無さを補っている。
3.良い歌はアカペラでも心を打つ
ゆるキャン△は物語技法を使わないことで、読者の心を強く揺さぶらないようにしていると論じてきた。「やっぱまだ帰りたくないーっ!!」の下りを見るに、あfろ氏は読者を感動させすぎないようにしているきらいがある。
とは言え大井川編には感動した。
漫画では、夜明けのシーンの言葉は少ないが、時間を共有することで通じ合っているなでしこと綾乃の描写に心打たれた。
アニメでは、その前のテントの中の会話シーンに感動した。
アニメの会話は日常会話であってもやっぱり人に聴かせる芝居なので、ある程度声を張るものだが、テントの中のなでしこと綾乃の会話は素で話しているような話し方で、この二人は本当に気の置けない友達なんだなーというのが伝わって来て泣いてしまった。
物語技法というのはマイクのようなものだ。マイクを使って声を増幅しなくても良い歌はマイクなしのアカペラだけで心を打つ。物語という感情増幅装置を使わなくても、素敵なシーンはそれだけで人の心を打つのだ。