東雲製作所

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映画ゆるキャン△感想―「楽しむ派」の設定に「為す派」の物語を接ぎ木するな

(本稿は『映画ゆるキャン△』のネタバレを含みます。)

ゆるキャン△』(原作:あfろ、監督:京極義昭、アニメーション制作:C-Station)は私が最も好きなアニメの一つだ。それだけに、『映画ゆるキャン△』にはヒットして欲しい。映画がヒットすれば、TVシリーズ第三期を作る資金的余裕ができるからだ。そのため、興業に水を差すようなことを書くのは控えてきた。
公開から2ヵ月経ち、上映館が縮小してきたので、公開初日に観てきた感想を公開することにした。

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『映画ゆるキャン△』はなでしこ、リン達五人組がキャンプ場を作る話だ。
キャンプをするのとキャンプ場を作るのは一見似ているようだがベクトルが正反対だ。
キャンプをする人は、テントを組み立てて一晩を過ごし、テントを解体して去っていく。キャンプは何も生み出さない、楽しむことだけを目的とした行為だ。
一方、キャンプ場作りは大規模な施設を作り出すという生産的な行為だ。

人生の目的は何かという問いに対する答えは「楽しむため」と「何かを為すため」に二分される。ここではそれぞれの立場を「楽しむ派」「為す派」と名付けよう。
キャンプは「楽しむ派」、キャンプ場作りは「為す派」の行為。『映画ゆるキャン△』は原作の人生観と真逆のことを行う映画なのだ。


物語構造にも「楽しむ派」と「為す派」がある。ハリウッド映画に代表される劇的物語は主人公が目的を成し遂げて成長するという物語構造を持つ「為す派」のフィクションだ。
一方、日常系に代表される劇的な物語構造を持たない作品は「楽しむ派」のフィクションだ。原作の『ゆるキャン△』はテーマ的にも物語構造的にも「楽しむ派」の極致のような漫画だ。

フィクションの主流は「為す派」の成長物語だ。成長物語には定番の構造があり、それに当てはめていけばある程度面白い物語になるので作りやすいからだ。
一方、楽しむ派の作品は劇的な展開を排することで、細部の面白さを際立たせようとするアプローチだ。ディティールの面白さで勝負するしかないのでより作るのが難しい。『ゆるキャン△』ではあfろ先生による丹念な取材とユーモア感覚で細部の面白さを生み出している。


『映画ゆるキャン△』の問題点は「楽しむ派」作品の設定を使って「為す派」作品を作ったことに尽きる。
「為す派」作品が悪いわけではない。私は『ゆるキャン△』が大好きだが同じぐらい『君の名は。』のような劇的な作品も愛している。
私が言いたいのは「楽しむ派」作品のガワを使って「為す派」作品を作るなということだ。例えば『孤独のグルメ』で五郎が飲食店を開業するために奔走する映画を作ったらそれは『孤独のグルメ』じゃないだろう。
逆に半沢直樹がまったりソロキャンプをする話を作っても面白くなるとは思えない。『半沢直樹』は劇的な話の展開に合うよう、振り切ったキャラクター設定にしている。半沢直樹がキャンプをしても、キャラの濃さに負けてささやかな喜びがかすんでしまう。

京極監督はインタビューで、原作ファンからは「批判されて当然」だが、「あえてチャレンジして、いろんな方に届くように映画を作るという道を選びました。」と語っておられる。『映画ゆるキャン△』を従来の『ゆるキャン△』ファン以外が見に行かないだろうという突っ込みは置いておいても、京極監督の構想には問題がある。『映画ゆるキャン△』の設定が劇的なストーリー向けになっていないのだ。

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ゆるキャン△』にも唯一「為す派」のエピソードがある。千明、あおい、恵那の三人が山中湖湖畔で凍死しそうになる『大間々岬の冬』だ。このエピソードはあまり『ゆるキャン△』らしくないが、ちゃんと命がかかっているから劇的で面白い。「為す派」の物語を作るには、命か命並みに大事なものがかかっている状態にしないと、話に緊迫感が出ない。
『映画ゆるキャン△』ではキャンプ場が完成しなくてもがっかりなだけ。キャンプ場作りは五人の人生の主目的ではなく、一時的な目標に過ぎない。これでは視聴者を引き込めない。

どうしてもキャンプ場を作る話にするなら、キャンプ場が完成しなかったら人生破滅するぐらいキャラクターを追い込むべきだ。例えば、千明は県庁の派遣職員でキャンプ場プロジェクトが成功しなければ今年度限りでクビ、なでしこはプータロ―でキャンプ場に就職できなければ家を追い出されてしまう、しまリンは事故で作った借金を早急に返さねば大好きな愛車を手放さねばならないみたいな設定にすれば、もっと「為す派」らしい切実な話になっただろう。
そうでなくても、東京や名古屋からキャンプ場づくりのために頻繁に山梨にやって来るというのは無理がある。映画のことだけ考えるなら全員地元に残っているという設定にすべきだ。

京極監督は「映画としては当然、主人公の葛藤みたいなものを描くために強いストレスをかけるのは定石なんですけど、やってみるとなんかしっくりこない。だから、やり過ぎないようにとバランスには気を付けました。」と語っておられるが、設定とストーリーが合っていないからしっくりこないのだ。原作の世界観通りに「楽しむ派」作品として仕上げるか、原作の世界観をぶち壊してでも「為す派」作品らしく強いストレスをかけるかのどちらかにすべきだ。
本作は「楽しむ派」のあfろ先生が考えた五人の未来に「為す派」の物語を無理やり接ぎ木し、バランスに気を付けて作ったせいで何とも中途半端な作品になってしまった。


キャンプ場作りをテーマにした弊害は映画の細部にまで及んでいる。
原作の『ゆるキャン△』は「キャンプ場につくまでがキャンプですよ。」「ついてからは何なんだよ。」のようなウィットに富んだやり取りが大きな魅力になっている。彼女達はただ楽しむためにやり取りしているので、中身のない、高等遊民的なやり取りが交わされる。
一方、『映画ゆるキャン△』で五人はキャンプ場を建設するために文字通り建設的なやり取りを交わす。目的を持った中身のあるやり取りなので、下らなさ、ユーモアが消え去ってしまい、会話劇として全然面白くない。
特に許しがたいのが、犬子(あおい)が全く奇天烈なホラを吹かないことだ。犬子のホラに千秋が突っ込むのはゆるキャン△の会話劇の肝。犬子のホラを再現できないのなら、オリジナルなどやるべきではない。


私はかねてからTVシリーズの続きに当たる大井川編を映画化すれば良いと主張していた。大井川編はちょうど映画にするのに良い長さだし、吊り橋のようなスペクタクルもある。夜明けのシーンはぜひ大画面で見てみたい。
私は京極監督が「映画はオリジナルで行くぜ」とか言い出したのかと思って憤っていたのだが、監督インタビューを読むと、原作のストックが全くない状態で映画の企画が持ち上がったので、オリジナルで作るしかなかったのだと言う。
おそらくストーリーの骨子が出来上がった時点で、京極監督も脚本の田中氏、伊藤氏もプロデューサーもあfろ氏もこのままではいかんと思っていたのだろうが、巨額の金が動いているという大人の事情から、ゼロベースで企画を立て直すべきだとは言い出せなかったのではないか。
私は部外者なので言いたい放題言っているが、関係者だったとして、いったん白紙に戻すべきだと強く主張できたかどうか、考え込んでしまった。

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