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最強キャラをどこに置くか――呪術廻戦感想

(本稿は呪術廻戦の抽象的な軽度のネタバレを含みます。)

作中最強キャラはどこに配置すべきだろうか。最強キャラが担う役割は大きく分けて三つある。1)敵、2)主人公、3)師匠だ。

 

1)最強の敵

最も多いのは敵が最強というパターンだ。小ボス、中ボスを倒して最強のラスボスへと迫っていくという物語構造はファンタジーの王道であり、ハリーポッター鬼滅の刃など多数の作品が存在する。
また、ゴジラジョーズターミネーターのような恐ろしい敵から逃げ回るタイプの作品も最強の敵カテゴリーに分類できる。
最強キャラを敵にすることには二つのメリットがある。最強の敵に打ち負かされることで主人公を成長させ、最強キャラを知恵と勇気で打ち負かすことで最大のカタルシスを得ることができる。これを成長カタルシスと下克上カタルシスと名付けよう。
私が直近書いた小説三作の内、二作は最強キャラを敵に、一作は師匠にしたが、敵にした作品の方が明らかに出来が良かった。最強キャラを敵にすると、敗北してどん底に落ち込み、そこから成長して打ち負かすという起伏に富んだ展開になるので書きやすい。初心者はまずは敵を最強キャラにするべきだ。


2)最強の主人公

主人公が最強という無双系作品も多い。俺TUEEE系のなろう系作品や、暴れん坊将軍のような時代劇、シャーロックホームズのような探偵小説は主人公が最強であることが多い。
このタイプの作品は主人公が力量差で敵をねじ伏せる無双カタルシスが味わえる。主人公をとにかく格好良く描きたい人向けの形式だ。
一方で、主人公を最強にすると、主人公を成長させられないという欠点がある。主人公を成長させるためには、敗北させてこのままではダメだと痛切に思わせる必要がある。主人公が最強だとパワーアップはできても真の成長はできない。
主人公を最強にすると、主人公が負けないので物語に大きな起伏を作れない。従って、長編小説には向いていない。逆に言えば、主人公が最強だと、問題発生→解決と話をコンパクトにまとめることができる。連作短編には良い形式だ。


3)最強の師匠

主人公の師匠が最強という作品も一定数存在する。るろうに剣心や呪術廻戦のような作品だ。
このタイプのメリットは主人公の成長カタルシスと師匠の無双カタルシスを両取りできることだ。通常の成長物語の構造を維持しながら、作中最強のめちゃくちゃ格好良いキャラを身近に配することができる。ラスボスは主人公の遠くにいることが多いので、師匠にした方が最強キャラの魅力をよりたっぷり描くことができる。
一方で、この形式には欠点がある。なぜ最強キャラが全部自分でやらんのか問題だ。
るろうに剣心の場合、最強キャラ比古清十郎は強すぎる力の弊害を感じて隠遁している。上手い設定だがせっかく最強なのに出番が少なくなってしまっている。
弟子の成長を促すためにあえて弟子に任せていると説明するという手もある。だが、いざという時は師匠が出てくれば解決するので、緊迫感が減じてしまうという欠点がある。

呪術廻戦の五条悟は作中のパワーバランスを一人で変えるほどの最強キャラであり、五条がいる限り、主人公の虎杖や乙骨の出番はない。そこで、呪術廻戦では肝心の戦いの時に足止めされたり封印されたりして五条が不在になるという方法で、なぜ五条が自分でやらんのか問題を解決している。だが、その結果として、五条は最強なわりに肝心な時に役に立たないという印象になってしまっているのは否めない。
また、敵が最強キャラを知恵と勇気で打ち負かそうとするという構造になっているので、ストレスが溜まる。敵にも五条と同じぐらい強い奴を配すれば良いのにと思っていた。
だが、アニメで渋谷事変における五条のすさまじい強さを見て認識を改めた。私は無双カタルシスに懐疑的で、強者が弱者を倒すより弱者が強者を倒す方が爽快に決まっていると思っていたのだが、五条が領域展開したシーンではドーパミンが出まくってうっとりしてしまった。無双カタルシスがすごいので、多少肝心な時に役立たずなぐらいしょうがないのかもしれない。