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真実の10メートル手前感想――計算された駆動力

(本稿は『真実の10メートル手前』の抽象的ネタバレを含みます。)

『真実の10メートル手前』(米澤穂信著、東京創元社)はフリージャーナリスト大刀洗万智の活躍を描いた連作ミステリー短篇集だ。
ほとんどの作品にろくでもないおじさんが登場し、ろくでもないおじさん見本市みたいになっている。それも、ダメだが憎めないおじさんではなく、単に嫌なおじさんばかりだ。私もはてブで批判ばかりしているので、作中に登場する批判ばかりしているおじさんなど身につまされる。
おじさんとしてはろくでもない女性や若者も出してよ、と思うが、米澤氏の中でろくでもない奴はおじさんばかりだという実感があるのかも知れない。


米澤作品を読むたび驚くのが、リーダビリティの高さだ。小説には読者にページを繰らせるための駆動力となる要素がある。米澤作品は駆動力が弱そうなのに実際は強いので、そのギャップに驚くことになる。

ミステリーの駆動力は「謎」だ。一体誰が犯人なのか、犯人はなぜこんなことをしたのか、犯人はどうやって犯罪を成し遂げたのかといった謎が物語の主軸になり、読者は謎の答えが知りたくてページをめくる。
だが、米澤作品の場合、非現実的なことが起こらないため謎が非常に地味であることが多い。本作は事件記者の大刀洗が主人公であるため、多少派手な事件も登場するが、作品によっては犯罪すら起こらなかったりする。
さらに、本作では多くの作品で謎が明確に提示されない。ささやかな違和感があるだけで、大刀洗級の頭脳がないと何が謎なのかも分からない。これではページを繰らせる原動力にはならない。

また、多くのエンターテイメント作品では、今後どうなってしまうのかというハラハラ感で読者を引き込む。これは「未来の謎」とでも呼ぶべきサスペンスの駆動力だ。連続殺人が起こったり、探偵やその仲間に危機がせまることで、読者は興味をふくらませる。
本作は表題作を除けばどれも終わった事件を扱っているので、今後どうなるのだろうというハラハラ感はない。
つまり、本作はミステリーとサスペンスの主な駆動力をほとんど使っていないのに引き込まれるのだ。米澤氏は一体どんな魔法を使っているのだろうか。

本作では全ての短編で語り手が異なっているのだが、どれも語り手が大刀洗万智のことを誤解し、それが解消されるという構造を持っている。「欠落→解消」という物語の基本となる駆動力だ。唯一、大刀洗万智本人が語りを務める「真実の10メートル手前」はこの駆動力が使えないため、代わりにサスペンス要素が配されている。
さらに、作品全体でも、大刀洗の記者としての想いが報われず生じた欠落が、最後に解消されるという構造を持っているので、カタルシスがある。


『真実の10メートル手前』は記者の役割とは何かというテーマを扱った社会派の作品だが、むしろそれ故にリーダビリティにも綿密な気配りがなされているのだ。