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かがみの孤城感想――なぜ主人公を変えなかったのか

(本稿はネタバレに配慮してはいますが、抽象的にはあからさまなネタバレを含みます。)

 『かがみの孤城』(辻村深月著、ポプラ社)は2018年本屋大賞受賞作だ。七人の不登校児が鏡の中の城に集まって何でも願いが叶う鍵を探す話で、細やかな心理描写に引き込まれて一気に読んだ。

 一方で、なぜこうしたのかと納得行かない個所が二つあり、もやもやが残った。


 一つは謎の解き方だ。本作には大きく二つの謎がある。見え見えの謎と巧みな謎だ。
 本作ではクライマックスで探偵役の主人公こころが、見え見えの謎をドヤア!と解き明かすのだが、中盤で既に気づいていたので、「すぐに分かったよ、こんなもん!」と言いたくなった。ヒットした某映画と同じトリックなので、大抵の人はすぐ気づくだろう。
 探偵は読者よりも賢く設定するのがセオリーだ。本作では探偵が読者よりアホなので、なぜ気づかないのかと読んでいてイライラした。

 一方、巧みな謎の方はきっちり伏線が張られていたのに、全然気づかなかった。謎に登場人物の想いがこもっていて、心打たれた。こちらは見事な謎なのに、紙幅を割かずにさらっと明かしている。見え見えの謎は中盤あたりで明かしてしまい、巧みな謎をクライマックスでドヤア!と明かせばもっと盛り上がったのに、もったいない。


 もう一つは最終決戦だ。クライマックスである事件が起こり、こころは恐ろしい敵を相手に危険なミッションをこなすことになるのだが、これが取ってつけたような感じなのだ。
 七人のうち、こころがこのミッションに挑むことになるのはたまたまであり、こころである必然性がない。また、こころと敵には何の因縁もないので、敵対する理由もない。クライマックスを盛り上げるため、事件を起こしてみたという感じが拭えない。
 こころが最終決戦で対峙するとしたら、不登校の原因を作った真田美織であるべきだ。関係ない敵と戦っても、自身が抱える問題は解決しない。

 本作は不登校がテーマなので、作者はこころが真田美織と戦うと、不登校児に「戦わなくてはダメだ」という誤ったメッセージを送ってしまうと考えたのだろう。だが、そうであるならば、戦うシーンそのものを無くすべきだ。
 本作では無理に戦いのシーンを作ったために色々と納得いかない個所が生じている。例えば、クライマックスの敵はなぜもっと必死になってこの展開を回避しようとしなかったのか、とかだ。クライマックスの敵が上位者から何を禁じられているのかが詰められていないので、行動に不可解さが残ってしまっている。


 本作にはミステリーとしての側面と成長物語としての側面がある。ミステリーは謎を解く話であり、成長物語は敵との最終決戦を通じて成長する話だ。その両方の面において、クライマックスの展開に不満があるのだ。

 二つの問題点を解消する簡単な方法がある。主人公を某登場人物に変えれば良いのだ。そうすれば二番目の謎の解明をもっとたっぷり描くことができたし、最終決戦の敵とも因縁があるので対峙する理由がある。意に反して暴走する敵を某人物が必死に止めようとする展開なんて、想像しただけで泣きそうである。なぜそうしなかったのか分からない。


 そもそも論として、こころを主人公にするなら、大掛かりなファンタジー設定など必要ないのではないか。
 本作の傑出している点は、不登校の子供が集まって遊んでいるだけなのにぐいぐい読ませる、細やかな日常描写だ。
 辻村氏は人間観察力が卓越している。ちょっとした心の歪みを抜群のリアリティで描き出す。トラウマをほじくり返されて嫌な気分になるのに、ページを繰る手を止められない。
 おそらく辻村氏も学校に馴染めない子供だったのだろう。書いていることに切実さがある。それが多くの子供達の心を捉えたのだろう。

 辻村氏なら、フリースクールに集まった生徒が徐々に立ち直っていく様を描くだけでも十分面白い小説になるはずだ。もっとご自身の卓越した人間描写力に自信を持って欲しい。