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蜜蜂と遠雷感想――空とケレン味

(本稿は『蜜蜂と遠雷』の抽象的ネタバレを含みます。)

蜜蜂と遠雷』(恩田陸著、幻冬舎)はピアノコンクールを舞台に、タイプの違う天才達がしのぎを削る、音楽バトル小説だ。
本作の大きな魅力は、作者自ら天下一武道会に例えるケレン味だ。
全選手入場的に書くとこうなる。

脅威の耳を持つ養蜂家にして、伝説のピアニスト、ユウジ・フォン=ホフマンの秘蔵っ子。ホフマンが遺した爆弾は、果たしてギフトが厄災か。風間塵!
母の死と共に消えた天才が七年ぶりに帰って来た。生まれ持っての音楽家。世界があなたの覚醒を待っている。栄伝亜夜!
ついたあだ名はジュリアードの王子様。一音聞けば観客全てが恋をする。圧倒的技巧を誇る天性のスターがやって来た。マサル・カルロス・レヴィ・アナトール!
音楽は天才だけのものじゃない。出場者最高齢。凡庸な家庭に育ったサラリーマンが、生活者の音楽を見せてやる。高島明石!

いかにも面白そうな設定だが、実際面白い。勝負の行方に加え、恋愛要素もあって、ぐいぐい引き込まれる。


蜜蜂と遠雷」がすごいのは、クラシックピアノの世界でハッタリを効かせたことだ。

例えば、異世界魔法バトル小説なら「大魔法ビョウンポーを中級魔導師が発動できるのはおかしい」とか突っ込んでくる読者はいない。大魔法ビョウンポーのことを知っているのは作者だけだからだ。

一方、クラシックピアノは恐るべき研鑽を積んだプロが大勢いるので、うかつにハッタリをきかせるとフルボッコになる。さらに本作ではキャラクターになりきって、曲に対し作者独自の解釈まで加えているのだ。
Wikipediaによると、恩田氏は本作を書くために、3年に1度開催される浜松国際ピアノコンクールに4回も通い詰め、12年もかけて完成させたのだという。あまりの労力に気が遠くなる。


一方で、本作には音楽の真実に迫ろうとする求道的な要素もある。キャラ立ちと求道的要素を併せ持っているという点で吉川英治の『宮本武蔵』を思わせる。
コンテスタント達はそれぞれの課題を追求していった結果、無我の境地に至り、瞑想中の高僧のようなビジョンを思い描き、色即是空のようなことを考えだす。

音楽は空の思想と相性が良い。
ラーメンに実体がないと言われても受け入れがたいが、音楽に実体がないと言うのは受け入れやすい。

本作ではコンクールの掉尾を飾る栄伝亜夜の本選の演奏が書かれていない。私には、探求が到達点に達しこれ以上何も書くことがなくなったかのように感じた。言わば、空の状態に至ったから何も書いていないのではないか。


空とは無のことだと思われがちだが、正確には有でも無でもないことを指す。
般若心経の「乃至無老死 亦無老死尽」は「老いや死は無いし、老いや死が無くなることもない」という意味だ。
その思想は難解だが、自分が分かるレベルまで落として理解するなら、一方に決めつけず、あるがままに見るように努めよということではないか。

自我というフィルターによって歪めずに、物事をあるがままに捉えようというのが空だ。
一方、作者が自我を通して歪みを増幅して見せるのがケレン味だ。
空とケレン味はベクトル的に正反対なのだ。


蜜蜂と遠雷」は空とケレン味の闘争小説である。
本作のようなエンターテイメント性と思弁性を兼ね備えた全体小説の作者はこの相反するものの間で綱渡りをしなくてはならない。
ケレン味がないと面白くないし、空がないと真実ではないのだ。