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何故けものフレンズは人気なのにリベラルは叩かれるのか

 テレビ東京系で『けものフレンズ』(たつき監督)が再放送された。私も冒頭だけ見てから出社し、帰ってきてから録画を見て癒やされていた。ほんと、幸せな気分になるアニメだよね。

 けものフレンズのメッセージはオープニングテーマの「けものはいてものけものはいない」「姿かたちも十人十色 だから魅かれ合うの」というフレーズに象徴されている。各エピソードでは「バスを川向うに渡せない」「山頂のカフェに客が来ない」「能力が偏っているため住処を完成させられない」といった難題が登場するが、異なった個性のフレンズ達が協力して解決に導く。フレンズ達は違いを理由に疎外されることはなく、むしろ違いがあることが問題解決上有益であることが繰り返し示される。違いを尊重しようというのはリベラリズムの中心命題。ジャパリパークはリベラルにとっての理想郷なのだ。

 リベラルオタクの私にとっては困惑するのだが、インターネット上ではしばしばリベラルはオタクの敵だという主張がなされる。だが、けものフレンズはオタクの敵だなどという奴はいない。むしろ大人気だ。リベラルは偽善的だと批判されるが、けものフレンズが偽善的だと批判する人は見たことがない。中心命題は同じなのに、何故こんな違いが生じているのだろうか。原因として二つの違いが挙げられる。

 

違い1 フレンズは「君をもっと知りたいな」と思っている。リベラルは他者を理解しようという意思が薄い。
 「ようこそジャパリパーク」の歌詞で重要なのが、「君をもっと知りたいな」と言っている点だ。同質的な集団なら、放っておいてもトラブルは少ないが、十人十色な集団では、相互理解に努めないとすぐトラブルになってしまう。サーバルちゃんを筆頭に、フレンズ達は積極的に相手の美点を発見し、「すごいねー」と称えることで相互理解に努めている。

 一方、リベラリストは自分たちとは異なっている対立陣営を理解しようとする意思が薄い。インターネットの書き込みを見ると、リベラリスト保守主義者を「すごいねー」と褒め称えていることは稀で、たいていは舌鋒鋭く批判している。また、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン氏が敗北した原因も、クリントン氏達がラストベルトの白人労働者達を理解しようとする意志が薄かったため、労働者達が疎外感を募らせてしまったからだと言われている。
 もちろん、それはお互い様ではあるのだが、違いを認め合うことを旗印とするリベラル陣営こそ、率先して保守主義者を理解しようとするべきだ。私自身、他人に対する興味が薄いので、書いていて自分で耳が痛い。

 

違い2 けものフレンズの世界では敵が明確。現実は敵があいまい。
 理想郷のようなジャパリパークにも敵は存在している。セルリアンだ。
 普段はマイペースなフレンズ達も、セルリアンに対しては一致団結して戦った。ジャパリパークでは敵が明確なのだ。セルリアンは無機的存在で誰も感情移入して見ていないから問題が顕在化していないが、セルリアンから見れば全てのフレンズから敵認定されているわけで、相当辛い状況だ。フレンズにとってはユートピアでもセルリアンから見ればデストピアなのだ。

 多様性を認めない存在を野放しにしていた結果がホロコースト。多様性を尊重すると言っても、多様性を害する敵とは戦わねばならない。問題はどこまでが「多様性を害する敵」なのかだ?
 ナチスのように深刻な被害をもたらすものから、悪意のない文化の盗用(欧米人が和服を着て写真を撮るといったこと)のように実害が少ないものまで、リベラルが指摘する問題には濃淡がある。どこまでが許され、どこからは許されないかは人によって違う。その違いをめぐって争いになる。
 だが、敵があいまいなのはむしろ良いことなのだ。
 全体主義国家は違いを認めなかったから異論によるブレーキが働かずに暴走してしまった。何が敵なのか一致できないのはスッキリしないが、敵だと思うものが人それぞれ違うことが社会の安全弁になっている。そのためには、スッキリしないことを受けれいなくてはならないのだ。