東雲製作所

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自らの人生を選び取っているか?――おんな城主直虎第33回 嫌われ政次の一生感想

 (本稿は「おんな城主直虎第33回 嫌われ政次の一生」のあからさまなネタバレを含みます。)

 おんな城主直虎第33回で直虎が政次を自ら刺し殺したのには驚愕した。実家に帰省して家族で見ていたのだが、終わるまで誰一人口を開くことができなかった。
 直虎の政次殺しには重層的な意味が込められている。それを5つの観点から読み解きたい。

1キリスト
 罪を背負って磔刑になるということでまず思いつくのはキリストだ。キリストは人類を救うために犠牲になるが、政次は井伊家を守るために犠牲になる。神の元では皆平等な西洋社会と家という中間共同体に尽くす日本社会の違いが現れているとも言える。
 政次が死によって購った罪とは何なのか。直接的には近藤の罪の犠牲になった訳だが、より大きな意味があるように思う。近藤は政次に「お主はとうにわしを騙したことなど忘れておろうのう」と指摘し、政次は実際忘れている。また奪い合うのは「世の習いじゃ」と言う。そう考えると政次が購ったのは人が誰しも知らず知らずのうちに犯してしまう原罪のようなものなのではないだろうか。

2親殺し
 直虎と政次の関係は何だろうか。恋人ではないし、普通の親友でもない。政次は直虎をずっと守ってきた。そう考えると、二人の関係は友であると同時に兄妹であり、親子であった。
 政次の庇護を受けている限り、直虎は領主として独り立ちすることができない。直虎は「守ってくれなどと頼んだことは一度もない」と苛立っていた。直虎は親殺しをすることで、自らが一人前の領主であることを示したのだ。

3師匠超え
 井伊家を守るため、時に非情な決断をし、直虎を導いてきた南渓和尚。だが、今回南渓和尚は「政次が死ねばあれは死んでしまうからなあ。翼が一つでは鳥は飛べぬ」と二人を逃がす策を提示する。だが、直虎は政次を刺し殺して政次なしでも飛べることを示した。師匠の予想を超えたのだ。

4承認
 政次は「忌み嫌われ井伊の仇となる。おそらく私はこのために生まれてきた」と語る。そして「わっかんねえなあ」と苛立つ龍雲丸に「分からずとも良い」と答える。
 政次は誰からも理解されなくても良いと思っていたのか。そんなことはあるまい。政次は皆に理解されなくても直虎は分かってくれるのではないかと期待していたから碁石を託した。それに対し直虎は槍で刺し殺すことで分かったという回答を返した。だから政次は演技の嘲りの笑みを浮かべる前に、一瞬だけ本当の笑みを浮かべたのだ。
 ちなみに、視聴者が直虎の政次殺しに軒並み驚愕したということは、作中のほとんどの登場人物だけでなく、ほとんどの視聴者も政次を真に理解できていなかったということを表している。メタ的にすら誰も理解できないのに直虎だけは理解できた。二人の特別な関係が際立つ巧みな筋書きだ。

個人主義
 『おんな城主直虎』は現代的視点から戦国時代を再解釈したドラマだ。中でも龍雲丸は極めて現代的価値観を持っており、侍達の戦国的価値観を問い直す存在だ。
 何が本懐だと怒る直虎に、龍雲丸はこう言い聞かせる。
「小野の家に生まれたことで振り回されたかも知れねえ。辛い目にあったかも知れねえ。けどそんなもん、その気になりゃ放り出すことだってできた。そうしなかったのはあの人がそれを選んだからだ。あんたを守ることを選んだのはあの人だ。だから本懐だって言うんでさあ」
 戦国時代のような個人の自由が極めて制限されていた時代でも、直虎や政次は自らの人生を自分で選び取った。それに比して、何でもできるはずの現代で、あなたは本当に自らの人生を自分で選び取っているのか? 作者はそう問いかけているのではないだろうか。


 

 

大抵のことはアブよりはまし

 北海道出張では何日か森のなかで作業をした。北海道の森で最も恐ろしいのは熊である。熊よけ鈴にスピーカー、爆竹など万全の装備をして森に入ったが、幸い遭遇することはなかった。だが最もうざい奴に追い回された。アブである。
 アブは体長2~3センチ。ブオオオオオオというけたたましい羽音を響かせて人に近づいてきては執念深く付きまとってくる。アブが飛んでいる隙に素早く移動して撒いてやったと思っても、何故かじきに追いすがって来る。温度なのか嗅覚なのか知らないが、とにかく恐るべきしつこさである。私は長袖長ズボン長靴軍手に防虫ネットというフル装備で固めているので、まとわりついてきても全くの無駄。私は不快でアブは疲れるだけというlose-lose関係にも関わらず、それを理解できない奴らは服や防虫ネットの上を歩き回っては飛ぶを繰り返している。

 森の中に人が入ってくることなど稀で、他の野生動物の姿も見なかった。にも関わらずあんな猛烈に羽を震わせてエネルギーを消費していたら、すぐエネルギー切れで死んでしまうのではないか。そう思っていたが、後日ラジオで生物学者の本川達雄氏の解説を聞いて得心した。何でも、昆虫の羽ばたきは鐘のような共鳴の原理を利用していて、最初に一回羽ばたくだけでしばらく羽ばたき続けることができるのだという。何という効率的なうざさだ!

 中でも大変だったのが最終日だ。荷物が増えるのが嫌で、防虫ネットを置いてきたため、頭部をむき出しの状態で森に入った所をアブに襲われたのだ。奴は払っても払っても追いすがってくる。あまりに羽ばたきが煩いので、もうとまっていてくれた方がましかと、とまったのを放置していたら、頭を刺された。一度刺すと、今までのように軽く払ったくらいでは飛び立たない。直接アブを押すような感じでようやく引き剥がすことができた。感染症の恐れもあるし最悪である。

 今まで私はゴキブリを最悪な虫だと思っていたが、奴らは人に遭遇すると逃げていく。蜂は恐ろしいが、こちらから攻撃しなければ刺してこない。だが、アブは人間を刺すべく、向こうから近づいてくるのだ。
 何か悩みがある人は一度森に入ってアブに付きまとわれてみると良い。大抵のことはアブよりはましだと思えることだろう。

 

 

数年ぶりに運転した

 北海道に出張に行き、数年ぶりに自動車の運転をした。前回、田舎道で試しに運転した時は、左の人を避けようとして道のど真ん中に停車してしまったので、それ以来運転しないようにしていたのだ。
 北海道と言えば私が学生時代自爆廃車事故を起こした思い出の地。しかも彼の地のドライバーは制限速度オーバーでびゅんびゅん飛ばすのだと聞く。不安しかないが、社命なのだからしょうがない。事故に備え、出張終了後しばらくしたら「東雲長閑は事故死したようなので、遺作を読んでくれ」という記事がアップされるよう予約投稿をしてから出発した。(そして解除をミスって公開されてしまった。)

 新千歳空港でレンタカーを借り出発しようとしたが、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏んでも動き出さない。十分くらい悪戦苦闘した挙句、機器がONになっているだけで、エンジンがかかっていないことが判明した。
 出発し、しばらく走ったら信号が黄色になったので慌ててブレーキを踏んだら助手席のかばんが前に落ち、車に「急ブレーキを感知しました」と怒られた。何というハイテク。この車は他にも速度超過や端への寄り過ぎも感知して教えてくれるのだ。道中、何度もキンコンキンコンと寄り過ぎ注意の警告音が鳴り、慌ててハンドルを切った。皆さんが遺稿ではなくこの変な文章を読んでいるのはハイテクのおかげである。

 さらに感心したのがカーナビの進歩だ。700m前と300m前にこの先左折だと予告した後、曲がるずばりの所で「この信号を左です」と教えてくれるのだ。昔のカーナビでは、画面を見ながらこの信号かな、それとも次の信号かな、と迷っている内に前の車に追突していたものだが、このカーナビなら画面を見なくても大丈夫なのだ。画面に目を走らせるだけで車が横にずれていく私にはぴったりの機能だ。

 車は森のなかの一本道に入った。制限速度で走る私の後ろに車が連なる。何とか道幅が広い所で車を左に寄せて先に行ってもらおうとするが、これが難しい。対向車が来ていないタイミングを見計らってウインカーを出し、後方の車と意思疎通を図った上で滑らかに減速しなくてはならないのだ。そんな高等テクニックができるくらいなら、周りと同じ速度で走れるっちゅうねん。そんな訳で、後続車を先に行かせることもままならず、後ろの車への気疲れからぐったりしてしまった。渋滞を引き起こしても平然とノロノロ運転を続けているらしいガンバ大阪の遠藤選手は大したものだ。

 道中、最も恐ろしかったのがトンネルだ。対向車が来る時は左、ガードレールが迫っている時は右に避ければ安心だ。だが、トンネルではどちらにも逃げることができない。サイドミラーを見ると車が横にずれるのでどちらかに寄っていないか確認できない。ただただ心を無にして通り過ぎた。
 普通の車の車幅は道幅に大して余裕がなさすぎである。縦型ツーシーターの車を売り出したら、私のような運転が下手な人に需要があるのではないだろうか。

 一週間運転していたお陰で、ものすごく運転が下手なドライバーから運転が下手なドライバーへとレベルアップした。もう交通量が多い道や人通りが多い道、狭い道、高速道路以外ならどんな道でも大丈夫だ。

 帰ってきてから一つ変化があった。道を歩いていて近くを車が通ると、自分が運転している感覚が蘇るようになったのだ。車が停止するのを見ると、ブレーキを踏む感覚が浮かんでくるし、曲がるのを見るとハンドルを切る感覚が蘇ってくる。これまでは、車を見ても全くの他者、異物であるとしか感じなかったのだが、共感を持って感じるようになったのだ。
 だが、数日経つと、その感覚は失われ、特に何も感じなくなった。定期的に新しい経験をすると、感覚がリフレッシュされ、発想上良い影響があるのではないだろうか。

 

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ナプキン一枚分だけ

  七夕の夜、電撃小説大賞から一次選考落選のメールが届いた。会心の出来で、最終選考までは行くんじゃないかと思っていたので、放心状態になってしまった。
 こういう時、「慰めて」と言える相手がいないのは辛いことだ。

 美味しいものを食べようと、後楽園のカレー屋に行く。L字型のカウンターに八席程が並んでいる。客は誰もいなかった。
 1.5倍増量中のカツカレーの食券を購入し、カウンターに差し出す。皿によそられたご飯があまりに多いので、減らしてと言おうとしたが、減らしてと言うと0.8倍くらいにされちゃうかな、などと考えている内にカツが皿に載ってしまい、山盛りのカレーと対峙することになった。
 スプーンで切れるカツとカレーの相性が抜群である。だがいかんせん量が多い。1/3くらい食べた段階で既に結構お腹がいっぱいになってきた。

 カウンターの壁際で、一センチ程の蛾がよたよたと飛んでいる。動きが緩慢なため、容易に殺せそうだ。だが私は蛾の生死に関わる気になれず、カレー皿に寄って来る度に手で追い払っていた。
 私の後に続々と客が入り、店内はほぼ満席になった。右隣に座った若いサラリーマンが蛾を気にしている。ナプキンを手にとって、蛾の捕獲を試みたが、蛾は私の皿の下に逃げ込んだ。サラリーマンは「済みません」と言いながら私の皿の下に手を伸ばす。目の前に逃れてきた蛾を、私はとっさに右手で叩き潰していた。
 サラリーマンが私にナプキンを差し出す。私はそれを受け取って、蛾の死骸を包んだ。それから私はカレーを食べきって店を出た。

 私は今後、あのサラリーマンに会うことはないだろう。まじまじと見たわけではないので、どんな顔かも覚えていない。だが、彼はあの日、ナプキン一枚分だけ私の心を軽くしてくれたのだ。

 

 

今朝の記事に関するお詫び

 今日の0時に自動投稿した記事に不穏なことが書いてあり、申し訳ありません。
 出張から帰ってきた後、ゴミ箱に入れたはずなのですが、ちゃんと消えていなかったようです。
 自動投稿した小説は電撃小説大賞に応募して落選したものの第一章です。
 無事に生還を果たした際は、加筆修正して他の新人賞に応募するため公表しない予定でした。
 しかし、続きが気になっている方がおられるかもしれないので、旧サイトにテキストデータをアップしていましたが新人賞に出すので消しました。
 お騒がせして済みませんでした。

僕は二階から目薬が差せる

久しぶりに運転するので念のため小説を予約投稿しておきます。

これが公開されていたら、事故にあったか投稿したのを忘れたかだと思います。

予約投稿の解除に失敗していました。ご心配をおかけして済みません。 

 

2017.11/28 GA文庫大賞に応募するため、本文を削除しました。

 

異なったリアリズムの混在――コンビニ人間感想

(本稿は『コンビニ人間』の抽象的ネタバレを含みます。)

 不気味さの谷という言葉がある。人間とは全然違うロボットや人間と見分けがつかないロボットは不気味ではないが、人間のようで微妙に違うような外見や動きのロボットは不気味に感じることを指す。
 第155回芥川賞受賞作、『コンビニ人間』(村田沙耶香著、文藝春秋)のヒロイン古倉は不気味さの谷にいる。外見が不気味なのではない。キャラクターのリアリティレベルが不気味なのだ。

 大塚英志氏は物語を自然主義的リアリズムに基づくものと、アニメ・まんが的リアリズムに基づくものに分類した。『コンビニ人間』の古倉には両者のリアリティが混在している。
 小学生の時、取っ組み合いのけんかをしている男子を止めるため、スコップで頭を殴りつけたといったいかにも人間性を欠いた感じのエピソードはアニメ・まんが的リアリズムに基いている。西尾維新作品などに登場しそうなキャラクター造形だ。
 一方、コンビニの描写や他者からの圧力を厭う心情は自然主義的リアリズムに基いている。
「18年間、「店長」は姿を変えながらずっと店にいた。
一人一人違うのに、全員合わせて一匹の生き物であるような気持ちになることがある。」
といった発想は奇抜ではあるが、確かなリアリティを持っている。それだけに、両者が奇妙に混在している古倉が、不気味に感じる。

 私は世界中の人間を二つに分けたら確実に古倉側の人間だ。十に分けても同じカテゴリーに入るかも知れない。コミュニケーション不全で変化を厭い、外へ向かう意志を欠いている所に親近感を覚える。だがそんな私から見ても古倉は不気味なのだから、ほぼ全ての人にとって不気味なのではないだろうか。

 『コンビニ人間』は社会が古倉のような標準から外れた人間を疎外する様を描いている。本作が巧みなのは、読者に古倉を不気味だと思わせることで、誰もが疎外する側でもあるということを自覚させるようになっていることだ。
 もし、古倉が自然主義的リアリズムのみによって構成されていたら、一部の読者は単に古倉に共感して終わってしまっていただろう。アニメ・まんが的リアリズムのみによって造形していたら、読者は単なるフィクションの世界の話として奇妙な世界を楽しむだけになってしまっていただろう。村田氏の旧作では瑕疵ではないかと感じていた異なったリアリズムの混在が、本作ではプラスに作用している。

 本作にはもう一つの混在が見られる。いかにも純文学的な奇妙な展開を辿りながら、最終的には行って帰ってくるという古典的物語構造へと着地している点だ。純文学的異化の力が炸裂している本作だが、本作の面白さに物語の力がもたらす充足感が大きく寄与していることも見過ごしてはならない。

 

コンビニ人間

コンビニ人間