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異なったリアリズムの混在――コンビニ人間感想

(本稿は『コンビニ人間』の抽象的ネタバレを含みます。)

 不気味さの谷という言葉がある。人間とは全然違うロボットや人間と見分けがつかないロボットは不気味ではないが、人間のようで微妙に違うような外見や動きのロボットは不気味に感じることを指す。
 第155回芥川賞受賞作、『コンビニ人間』(村田沙耶香著、文藝春秋)のヒロイン古倉は不気味さの谷にいる。外見が不気味なのではない。キャラクターのリアリティレベルが不気味なのだ。

 大塚英志氏は物語を自然主義的リアリズムに基づくものと、アニメ・まんが的リアリズムに基づくものに分類した。『コンビニ人間』の古倉には両者のリアリティが混在している。
 小学生の時、取っ組み合いのけんかをしている男子を止めるため、スコップで頭を殴りつけたといったいかにも人間性を欠いた感じのエピソードはアニメ・まんが的リアリズムに基いている。西尾維新作品などに登場しそうなキャラクター造形だ。
 一方、コンビニの描写や他者からの圧力を厭う心情は自然主義的リアリズムに基いている。
「18年間、「店長」は姿を変えながらずっと店にいた。
一人一人違うのに、全員合わせて一匹の生き物であるような気持ちになることがある。」
といった発想は奇抜ではあるが、確かなリアリティを持っている。それだけに、両者が奇妙に混在している古倉が、不気味に感じる。

 私は世界中の人間を二つに分けたら確実に古倉側の人間だ。十に分けても同じカテゴリーに入るかも知れない。コミュニケーション不全で変化を厭い、外へ向かう意志を欠いている所に親近感を覚える。だがそんな私から見ても古倉は不気味なのだから、ほぼ全ての人にとって不気味なのではないだろうか。

 『コンビニ人間』は社会が古倉のような標準から外れた人間を疎外する様を描いている。本作が巧みなのは、読者に古倉を不気味だと思わせることで、誰もが疎外する側でもあるということを自覚させるようになっていることだ。
 もし、古倉が自然主義的リアリズムのみによって構成されていたら、一部の読者は単に古倉に共感して終わってしまっていただろう。アニメ・まんが的リアリズムのみによって造形していたら、読者は単なるフィクションの世界の話として奇妙な世界を楽しむだけになってしまっていただろう。村田氏の旧作では瑕疵ではないかと感じていた異なったリアリズムの混在が、本作ではプラスに作用している。

 本作にはもう一つの混在が見られる。いかにも純文学的な奇妙な展開を辿りながら、最終的には行って帰ってくるという古典的物語構造へと着地している点だ。純文学的異化の力が炸裂している本作だが、本作の面白さに物語の力がもたらす充足感が大きく寄与していることも見過ごしてはならない。

 

コンビニ人間

コンビニ人間