東雲製作所

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観客は主人公と一緒に叩き落とされる

 

(本稿は『君の名は。』『この世界の片隅に』『時をかける少女』『アナと雪の女王』『ベイマックス』の内容に触れています。核心部分は反転していますが、抽象的にはネタバレになります。)

 最近、アニメ映画で驚愕することが多い。
 もろネタバレになるので反転するが、『君の名は。』で三葉達が三年前に彗星の落下によって死んでいたことが明らかになるシーンや、『この世界の片隅に』で爆弾が爆発して姪の晴美が死に、すずも右手を失うシーンはまったく予期していなかっただけにかなりショックを受けた。この衝撃は、『時をかける少女』でブレーキが壊れた真琴の自転車に乗った功介と果穂が踏切で電車に跳ねられた時以来だ。
 『アナと雪の女王』でハンス王子が国を手に入れるためアナを欺いていたことが明らかになるシーンも、事前にネタバレを食らっていなければ相当驚いていただろう。

 『アナと雪の女王』に関しては「『アナと雪の女王』ハンス王子いい奴説というのを半ば本気で主張してみる。そして思い出した意外な人物」でわっとさんが「もうちょっと伏線を撒いとけ」と指摘されていた。これは同じくディズニー映画である『ベイマックス』と比較すると分かりやすい。
 『ベイマックス』も敵役の正体が意外な人物だが、これはある程度物語に触れていれば予想がつく。主人公達が「○○の正体は××ではないか」と予想している場合それは九割九分ミスリードだからだ。だが、『アナと雪の女王』はどんでん返しが仕込まれている予兆すらないので、予想するのは難しい。
 『君の名は。』は設定の重要な部分を隠しておくことで、『この世界の片隅に』では事件を突然起こすことで、『時をかける少女』では話を急展開させて意表を突くことで、観客に衝撃を与えることに成功している。

 三幕構成の映画では、第二幕の終わりにショックなことが起こり、主人公はどん底まで叩き落とされるのがセオリーになっている(→三幕構成 - Wikipedia)。主人公はショックを受けなければならないので、基本的にその出来事を予期できない。問題は観客がそれを予想できるように作るかどうかだ。

 観客は予想していたが主人公は予想できなかった場合、観客は主人公のことを自分より未熟な弟や妹、もしくは子どものような存在だと感じる。観客は主人公を応援しながら見ることになる。
 一方、観客も主人公も予想できない場合、観客は主人公と同じショックを受け、一緒にどん底へと叩き落とされる。この場合、観客は主人公=自分と捕らえ、主人公の痛みを我が事のように感じる。

 主人公と観客の関係をどのように設定するかには一長一短があり、どちらが正しいというものではない。だが、『アナと雪の女王』や『君の名は。』が記録的ヒットを飛ばしたのを見ると、最近は観客が自分と同一視できる主人公を求めているように見える。マジョリティの観客は応援より共感を求めているのではないだろうか。

 

見るなの禁止と量子論――君の名は。感想 - 東雲製作所

重すぎて受け止めきれない――この世界の片隅に感想 - 東雲製作所

大賢は愚に似たり――時をかける少女とDETH NOTE

 

 

 

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作らずにはいられない――シムシティ感想

 シムシティ ビルドイットは古典町づくりシミュレーションゲームスマホ版である。タブレットを購入したのを機にインストールし、時々ビルを建てていたのだが、オフラインでもプレイできると分かってからは取り憑かれたようにプレイしている。時間が空くとタブレットを手に取って金属を生産してしまう。

 シムシティでは住宅を建設、高層化して住民を増やし、レベルアップすればする程作れるものが増える一方、住民からの要求も高くなる。それがリアルな部分と奇妙な部分が混在していて面白い。
 高層ビルが立ち並んでいるのに、下水道がないので整備して下さい、という要求が出た時は笑ってしまった。新宿ばりの高層ビル群なのにトイレはくみ取り式便所だったのかよ、と苦笑しながら町の中心部に下水処理施設を作ったら「他にも場所はあるのに何て市長だ!」と大ブーイングを食らった。そういう所はリアルなのか。

 レベルアップする度に電気、水道、下水、ゴミ処理、消防、警察、病院と住民からの要求が増える。一方、一定以上のレベルに達すると税金を取れるようになり、時間の経過と共に税収は着実に溜まっていく。従って、出来るだけ不熱心にプレイする程金が貯まる。だが、都市を発展させたいという欲求に逆らえず、ついつい住宅を拡張して人口を増やしてしまう。

 シムシティをプレイして感じるのは人間の根源的な創造欲求は非常に強いということだ。子どもは毎日のように絵を描いたり積み木や土で何かを作ったりしている。
 しかしながら、大人になると作ったものが世間的にはしょぼいものでしかないということに気づいてしまう。頑張っても恥ずかしい出来のものしか作れない。労多くして益少なしということが、人間の創作欲求を抑えこんでいる。

 シムシティでは少ない労力で素晴らしいものを作ることができる。シムシティでビルを建てる労力は画面をタッチしてフリックするのを繰り返すだけだ。
 一方、出来上がる都市は細部まで作りこまれている。作り上げた町の中では、車や人間が常に動き回っている。しかも、ランダムに動いているのではなく、ちゃんとこのビルからこのビルへ向かっているという風に、自然な動きをしている。
 ビルの配置を考えるのは人間だが、デザインはプログラムが自動で決めてくれる。そして何と言っても素晴らしいのが朝昼晩の景色の変化だ。夜景も綺麗だが、さらに美しいのが明け方だ。茜色に染まったビルが長い影を落としている光景はほれぼれするほど美しい。

 労力と生産物のバランスを変えるだけで、アホみたいに作り始める。人は作らずにはいられない生き物なのだ。

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プロデューサーの奇妙な業務――デレステ感想

 アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ(以下デレステ)は奇妙なゲームだ。プレイヤーはプロデューサーになってアイドルを育成するのだが、主に行うのはリズムゲームなのだ。つまり、アイドルプロデューサーの最も大切な業務がアイドルがライブしている横で鈴をシャンシャン振って盛り上げることであり、どんなに人を見る目やマネジメント力、対外交渉力があっても、リズム感がないと駄目プロデューサーになってしまうのだ。どんな設定やねんと突っ込まざるを得ない。

 また、デレステをやって驚いたのがレッスンだ。レッスンはアイドルのレベル上げのために行うのだが、その際、レッスンパートナーに選ばれたアイドルは消えてしまうのだ。何だその恐ろしい設定は。つまりレッスンを行う度に次のような光景が繰り広げられているということではないか。

プロデューサー「今日は○○のレッスンを行う。レッスンパートナーは△△だ。」
△△「そ、そんな。それってレッスンが終わったら私はクビってことですよね。お願いです。クビにしないで下さい。何でもしますから。」
プロデューサー「うるさい。お前は○○成長のための糧になるのだ。」
○○「ごめん、ごめんね。△△ちゃん…」

 こんな冷酷なことはしたくないので、できるだけレッスンは行わずにプレイしていたのだが、先日、アイドルの数が定員の100名に達してしまったので、泣く泣くレッスンを行った。レッスンパートナーには重複しているアイドルを選んだのだが、そもそも同じ人が複数人事務所に所属しているというのは一体どういう状況なのか。同じモンスターが複数いるのは分かるが、同じアイドルが複数人いるのはおかしくないか? タイムリープでやってきた未来人なのかも知れないが、作中でそのような説明は一切なされない。既存のパズドラとかのシステムをそのまま人間に当てはめているため、奇妙なことになってしまっている。

 肝心のゲーム内容だが、シャンシャン鈴を振っているだけで、フルボイスのアイドル達の親愛度が上がっていくのはとても楽しい。お気に入りの三村かな子嬢からの親愛度がMAXになったので、大満足だ。

 デレステは重課金者が多いと聞いていたので、課金しないと「ちっ、しけてやがる」などとアイドルから冷たくあしらわれるのかと思っていた。ところが実際は無課金のへぼプロデューサーにも関わらず、好みのアイドルが親切にしてくれて、しばらくプレイしているだけで全幅の信頼を寄せてくれるのだ。これ以上何を望むのか全然分からない。

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エンタメとして評価すべき――罪と罰感想

(本稿は『罪と罰』のあからさまなネタバレを含みます。)

 『罪と罰』(ドストエフスキー著、工藤精一郎訳、新潮文庫)は人間の罪に関する深い洞察を含んだ高尚な純文学であると思われている。例えば、下巻の裏表紙には「ロシア思想史にインテリゲンチャの出現が特筆された1860年代、急激な価値転換が行われる中での青年層の思想の昏迷を予言し、強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書として不滅の価値に輝く作品である。」と紹介されている。

 作中で主人公ラスコーリニコフは独自の犯罪理論を論文として発表している。その理論とは「人間は自然の法則によって凡人と非凡人に大別される。凡人はこれは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料である。一方、ナポレオンのような非凡人は古いものを破棄するためにぜったいに犯罪者たることをまぬがれない」というものだ。
 これは今日的視点で見れば単なる中二病である。1866年に中二病の出現を予言したという点ではすごいのかも知れないが、十年後にラスコーリニコフに見せたら恥ずかしさのあまり床をのたうち回るような代物であり、大長編の主人公が延々と固執するほどのものだろうか。おかげで主人公に全く魅力がない。今まで読んだ小説の中で最も魅力のない主人公だと言っても過言ではない。

 しかもこれだけ延々と引っ張っておいて、ラスコーリニコフは献身的に尽くしてくれるソーニャの愛のお陰で救われました、というオチだったので本を壁に叩きつけたくなった。そりゃあ誰だってソーニャがいて支えてくれたら救われるけど、そんな人はいないから苦しんでいる訳で、ご都合主義にも程がある。

 全体的に作者はラスコーリニコフを甘やかし過ぎだ。途中でルージンが登場し、対決して勝つことでラスコーリニコフの方が人間として上みたいになっているが、ルージンは自分の金で人に恩を売って自尊心を満たしたがっているのに対し、ラスコーリニコフは親からもらった金で同じことをして金が尽きたら強盗殺人をしている訳で、人としてより最低なのはラスコーリニコフの方だろうと思ってしまう。

 本作では殺人の罪をいかにして償うことができるのかという問題に関しては何の回答も示されていない。ただラスコーリニコフが何の反省もないままに「考えるな、感じるんだ」という境地にたどり着いて心の平安を得ただけだ。そこに失望を禁じ得ない。

 一方、エンターテイメントとしては無駄話が多いせいであまりに長すぎるものの、面白い所はものすごく面白い。すぐに仕事を投げ出し妻に殴られて喜んでいるマゾおじさんマルメラードフの駄目っぷりがすごいし、殺人シーンの悪夢のようなビジョンはショッキングだし、ラスコーリニコフポルフィーリィの対決シーンは『すべてがFになる』冒頭ばりの緊迫感だし、ロリコンのスヴィドリガイロフがドゥーニャにストーキングする様はスリリングだし、葬式で集まってきたのがどうしようもない連中ばかりだというシーンは作者がノリノリで書いているのが伝わってきて楽しい。キャラ立ちがすごいので何を書いても面白く、滅茶苦茶な展開でも豪腕でねじ伏せられてしまう。

 『罪と罰』は深遠な純文学としてではなく、エンターテイメントとして評価すべきではないだろうか。

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 

 

回転寿司の支配者

 ゴールデンウィーク。出かける所のない私は回転寿司屋に行った。11時頃とあって客はまばらだ。その店ではカウンター席とボックス席が向かい合わせになったレーンが二つある。私が案内された席の右側にはおじいさんが、私とおじいさんの向かいにはそれぞれ家族連れが座っていた。
 レーンの流れはおじいさんが最上流に位置する。カウンターには十人くらい座れるのだが、まだ客が少ないため、レーンは私の席の少し下流でせき止められ、ショートカットして向かい側のレーンに向かうようになっていた。
 やがておじいさんが会計を済ませて席を立ち、代わりに私の下流側におじさんが座った。それにより、私は隣のおじさん及び向かいの家族連れ合わせて九人の最上流に位置することとなった。もし私が流れてくる良いネタを全て取ってしまったら、九人はナスの寿司やかっぱ巻きとかしか取れなくなる。つまり私がこのレーンの生殺与奪を担った支配者になったということだ。
 高揚していた私だが、じきに全然支配者ではないことに気づいた。おじさんも家族連れもレーンを流れる寿司には目もくれず、注文ばかりしていたからだ。
 何たる不見識! 私は憤慨した。
 回転寿司は壁の向こうの板前との対話である。流れてくる寿司は板前からの提案。客はまずはその提案に対し、何皿か取って応えるべきだ。客が取った皿を見た板前は、これとこれを食べたということは、次はこのネタはどうか、と考えて新しい寿司を流す。それによって客と板前の対話が成立するのだ。
 レーンの寿司を見もせずにいきなり注文するような客は、本屋に入って品揃えを見もせずにいきなり取り寄せを頼むようなもの。自らの意思を盲信した行為だ。回転寿司は客の意思と板前の意思、双方が奏でる協奏曲であるべきではないだろうか。
 何皿か食べた所で、私はそろそろ注文しようとタッチパネルに手を伸ばした。だが、目の前を魅惑的な寿司が次々と通過し、なかなか注文に移れない。
 左隣のおじさんは五皿だけ注文し、さっと席を立った。一方の私は、そろそろお腹もいっぱいだし止めようとした所で、出てきた豚カルビ寿司と厚切り鯖寿司に惑わされ、十一皿も食べてしまった。回転寿司の支配者は隣のおじさんであり、私は単に板前に踊らされていただけなのかもしれない。

酷い目に遭いたいという欲望――ぼくは明日、昨日のきみとデートする感想

(本稿は『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(七月隆文著、宝島社文庫)を読んで、非対称性に居心地の悪さを感じた。本作の恋愛は構造的困難さを抱えており、その負荷は男女が均等に負担するのが自然だ。だが、本作は男性視点で描かれており、中盤以降にどんでん返しを持ってくる都合上、女性側が過大に負担することになってしまっている。対等な男女というよりは主人と従者のような不均衡だ。これは、女性読者が反発するのでは? と思っていた所、本書は2015年「10~20代女性が読んだ文庫本」第1位なのだと言う。反発されるどころか、むしろ女性に支持されていたのだ。

 一般に、男性読者は男性主人公が、女性読者は女性主人公が良い目に遭う物語を好むものだと思われている。ハーレムものがその典型だ。だが、良く見ると、ハーレムものの主人公は意外と酷い目に遭っていることが多い。
 例えば、ハーレムラブコメの典型である『ラブひな』の主人公景太郎は周囲の女性達からやたら殴られたり迫害されたりしている。女性主人公の逆ハーレムものでもヒロインが女王様のように振る舞っている作品は稀で、男性陣から手荒に扱われていることが多い。
 ハーレムものに限らず、物語の主人公はたいてい酷い目に遭う。それは最後に大逆転してすっきりするための伏線だと思っていたが、それだけでなく、酷い目に遭いたいという読者の欲望に応えているのではないだろうか。
 私も、大半の人がマゾヒストだなどと主張するつもりはない。だが、少なくとも被害者の方が加害者よりも精神的に安定するのは確かだ。政治に目を向けても、左派は資本家によって虐げられた被害者、右派は移民によって虐げられた被害者という立場を取りたがっているではないか。

 本作最大の肝である、SF的仕掛けについても一言触れておこう。我々は昨日の自分と今日の自分は同一人物であると考えがちだ。だが、子供の頃の自分と現在の自分が同じ自分であるかと問われると、途端に自信がなくなる。両者の思考や思想は全く異なっているからだ。ならばどうして昨日の自分と今日の自分が同じであると言えるだろうか。
 本作を読むと昨日の自分と今日の自分は別人であり、人生は常に一期一会だということを気付かされる。それが本作がヒットした最大の理由ではないだろうか。

 

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

 

 

大阪7000円弾丸旅行

 ヨッピー氏の記事を読んで、大阪観光に行きたくなった。その後、なかなか行く機会がなかったのだが、ゴールデンウィーク前の平日に、さくら観光のおまかせプラン(便が流動的な分安い)がキャンペーンコード値引きで片道1350円になっていたので、休暇を取得して出かけることにした。
 前記の記事では東京から高速バスで行って一泊し、新幹線等で帰ってくるというプランニングをされていた。だが、せっかく交通費が格安なのだから、行きも帰りも高速バスを使いたい。そこで、夜行バスで行って一日観光し、夜行バスで帰ってくるという0泊3日の強行日程を敢行した。


 以前夜行バスに乗った時は首と腰が痛くなって酷い目にあった。だが、今回はしっかり事前準備をして臨んだので、それなりに過ごすことができた。(快適とは言っていない)。準備とは空気で膨らますタイプの首まくらとアイマスクである。共に100円ショップで売っているので必ず持っていくべきだ。また、今回、楽な体勢を発見したので図示する。

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ポイントは椅子の折れ曲がり部分に毛布や衣類を置いてできるだけ平らにし、体にかかる荷重を分散することだ。また、ラジオを持って行くと眠れない時に各地の深夜放送を聞けて、旅気分が盛り上がるのでおすすめだ。

 

 大阪梅田のプラザモータープールに6:15到着。ヨッピー氏はスパワールドに行って寝ることを推奨されていたが、一日で大阪中を周る私にはそんな余裕はない(とその時は思っていた)。大阪環状線大阪城公園に向かう。天守閣や博物館は開館前で中には入れないが、コンクリートとは言え堂々とそびえ立つ天守閣を見てテンションが高まる。

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 次に碁盤の目のようになっていて分かりやすい地下鉄を乗り継いで新世界へ向かう。動物園前駅で下車。ふと案内を見ると、北口から出ると通天閣のある新世界だが、南口から出ると西成警察署があると言う。せっかくなので南口に向かう。「新世界は反対側出口です」という大きな注意書きが掲げられた改札を出る。外へ出るとドヤが並び、いかにも西成という風景が広がっていた。そのまま南へ歩き出したのだが、道端におじさんが多数座り込んでいて緊張感が漂っていたので、十歩くらい進んで踵を返し、新世界へ向かった。
 あべのハルカスを遠くに見ながらスパワールドの脇を通って新世界へ向かう。新世界も南の方には地元の人向けのような入りづらい店があるのだが、中心の方へ行くと完全に観光地で十分前に感じていた緊張感とはかけ離れている。

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現在午前九時。店はほとんどやっていない。ヨッピー氏おすすめの串かつだるまの開店は午前十一時。天王寺動物園もまだ開いていない。二時間も佇んでいてもしょうがないので、24時間営業の串カツ屋でどて焼きと串かつを食べて北へ向かう。

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大阪市内の観光地大坂城海遊館以外は南北に連なっている。従って、新世界から梅田に向かって北上していけば、主な観光地を網羅することができるのだ。


 しばらく歩いて日本橋でんでんタウンに到着。いとうのいぢ氏デザインのマスコットキャラクターののぼりが立ち並んでいるが、店は概ね閉まっている。

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やはり早朝から動き始めるのは早すぎたのだ。ここで堺筋を離れて西のなんばへ向かう。


 大阪にはキタ、ミナミという二つの繁華街があり、キタの中心が梅田、ミナミの中心がなんばなのだ。大きなデパートが立ち並ぶ脇を通ってなんばグランド花月に向かう。

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ロビーでは年配の男女が順番待ちをしている。周辺にはパチンコ屋が点在しており、やたらと行列している。大阪はパチンコが盛んなのだろうか。
 ヨッピー氏のまとめによると、この辺ではわなかのたこ焼きを食べるべしと書いてある。Wifiスポットまで歩いて行って検索し、探しまわった所、何となんばグランド花月の隣にあった。まとめを読み返した所、ちゃんとなんばグランド花月の隣だと書いてあるではないか。良く読まないとこういうことになる。肝心のたこ焼きだが、外はカリッと、中はトロットロでさすがの味である。

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 そこから少し北へ行くと道頓堀。巨大なカニやふぐが並んでいていかにも大阪に来た感がある。

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ここで串かつだるまに入店。串かつだるまは方方にあるので、別に新世界で食べなくても良いのだ。噂通り、どっさりのキャベツがサービスで出てきて、串カツが出てくるまでの間食べる。大阪の食事と言うと粉もんばかりで体に悪そうなイメージがあるが、串かつに関してはベジタブルファーストだしタンパク質も多いので、結構栄養バランスが良いのではあるまいか。何種類か串かつを食べたが、やはり定番の牛串カツが一番美味しい。また、串カツ屋では、300円くらいする飲み物を強制的に頼まされるので、串かつ3本で300円だな、と思って店に入ると600円払うことになるので注意が必要だ。

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 グリコの看板を見て北へ向かう。心斎橋筋商店街から外れて少し西のアメリカ村へ行く。定番だという甲賀流でたこせんを食べる。ぱりっとした小麦粉の板でたこ焼きを挟んで食べ歩きできるようにしたものだが、たこ焼きだけの方が美味しいと思う。

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 心斎橋筋商店街をひたすら北へ向かう。やがて商店街が途切れ、ビジネス街になった。この辺はそれほど面白くないので、楽をしたい人は地下鉄に乗った方が良い。
 へろへろになりながらも中之島に到着。重要文化財の中央公会堂がある。これは東京駅を設計した辰野金吾による建物で、確かに雰囲気が似ている。

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隣の図書館も立派な建物だが、蔵書はしょぼい。歴史的建造物を図書館としても使っていますという感じだ。


 市役所の脇を通って北へ向かう。昨晩の疲れもあって体はボロボロだが、最後の力を振り絞って梅田に到着。梅田スカイビルに向かう。梅田スカイビルは他のビルとは離れた場所にあり、300mくらいある地下道を歩いていかねばならない。梅田スカイビルは二つのビルの間が吹き抜けになって最上部だけ繋がっている斬新な構造になっており、前庭が小さな森になっていて水がどうどう流れている。ビルの中庭は風の通りが良く、気持ちのよい空間だ。

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 梅田スカイビルを見終わった時点で午後5時。夜行バスが出る10時まで5時間もある。やはり早朝から動き始めるのは(以下略)。取りあえずJR大阪駅まで戻り、時の広場で休憩する。天井が高くて開放感のある人工芝の広場にベンチが置かれており、Wifiも使えるので休む穴場になっている。中高生のカップルが入れ替わりやって来てはいちゃついている。海遊館に行こうかとも考えたがそんな気力は残っていない。その後ははなだこのたこ焼きや551蓬莱の豚まんを食べたり、お土産を買ったり、一回プラザモータープールの場所を確認しに行って戻ってきてくたくたになったりした。
 東京はJRが中心にいてそれに東京メトロや私鉄が路線をつなげているという感じだが、大阪では阪急や阪神がJRとタメを張っている。阪急梅田駅など、重厚感のある駅舎にずらーっとホームが並んでいて、ハリー・ポッターのキングス・クロス駅のような迫力である。そのため、各駅の周りにごてごてと商業施設がくっついており、駅間がやたら遠いのだ。
 ようやく10時になり、高速バスで大阪を発った。疲れきっていたため、帰りはバス休憩の度に目が覚めた他は概ね眠りこけていた。

 今回の旅行でかかった金額は以下のとおりだ。

高速バス代 2700円
現地交通費 390円
食事代 3600円
計 6690円

 お土産代を除けば、7000円以下に収めることができた。力の限り節約すれば5000円に収めることも出来そうだ。だが、そこまでやると倹約が目的化して楽しくないだろう。
 食べた物の中でははなだこのたこ焼きが一番美味かった。中のとぅおろっっとろ感が素晴らしく、タコが二切れも入っているのもポイントが高い。さすがヨッピー氏が大阪一と称えるだけのことはある。

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