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フリのアウトソーシング――ポプテピピック感想

(本稿はポプテピピックのネタバレを含みます。文中敬称略。)

 『ポプテピピック』(大川ぶくぶ原作)が話題だ。特に耳目を集めているのはパロディの多さと毎回変わる声優だ。両者は別のこととして語られているが、毎回声優が変わるのも一種のパロディだ。主演二人の声優を三ツ矢雄二日高のり子が務めたのはタッチの、悠木碧竹達彩奈プチミレディの、古川登志夫千葉繁北斗の拳などのパロディと言える。
 江原正士大塚芳忠は原作漫画内で希望されていたことを実現したのでパロディと言って良いのか微妙だが、渋い大物声優をギャグマンガの女性キャラの声優として起用すること自体がパロディ的だ。

 パロディ自体は昔からある。例えば枕草子に、定子が「清少納言よ。香炉峰の雪はどうであろうか。」と言ったら清少納言が御簾を高く上げた話があるが、これは白居易の「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」のパロディと言えよう。

 話には通常「フリ」と「オチ」が存在する。フリで状況を説明し、フリとはギャップのあるオチを持ってくることで笑いや感心が生まれる。
 パロディを使う場合も普通は話にフリとオチが存在する。枕草子の例では、定子が清少納言に謎かけ的なことを言ったのがフリであり、清少納言が「ああ、白居易の詩ですね。」とか言わずにとっさに簾を上げたのが当意即妙だ、というのがオチになっているわけだ。

 一方、ポプテピピックの場合は単にポプ子とピピ美が他の作品の真似をしているだけで、フリ-オチとして成立していない。
 だが、視点を変えると、これはパロディ元の作品をフリにしていきなりオチを言っているとも言える。言わばフリのアウトソーシングである。例えば『君の名は。』のパロディでは美麗で感動的なパロディ元がフリになっていて、線が少なく感動とは程遠いポプ子とピピ美がパロディをやっているという落差がオチになっているのだ。

 この手法の優れている点は、一つのエピソードを圧倒的に短くすることができることだ。フリは状況を説明しなくてはいけない分オチより時間がかかる。フリを省略すれば、エピソードの長さを半分以下にすることができるのだ。
 PPAPをプロデュースした古坂大魔王は動画の長さをTwitterにアップ可能な動画の上限である140秒以内に抑えるよう気をつけていると言う。短時間の小ネタを畳み掛けるポプテピピックはいかにも現代的だ。

 現代人が短い動画を好むのは、娯楽が多くて忙しないからだろうと思っていたが、
わっとさんが
CMのように短い間隔で寸劇が切り替わるのは、子どもには観ていて快いのだ。たぶん大人にとっても。しかし大人の場合、「いまのオチはどこ?」と考えてしまう分だけ、快さが削がれるのではないか。
と指摘されていてなるほどと思った。確かに、PPAPにしろ、けものフレンズにしろ、ヒットする動画には何かしら感覚的気持ちよさが含まれている。

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 エピソードを短くできるというメリットはあるものの、この手法には問題も多い。最大の問題は、パロディ元を知らない視聴者が全然面白くないということだ。現代はすぐに誰かが元ネタ集を作ってネットにアップしてくれるので、パロディをやりやすい環境ではある。とは言え、後から元ネタを知っても笑えないことには変わりない。ならば、誰もが知っているような作品を元ネタにすれば良いようなものだが、それはそれで面白くない。パロディに意外性がないからだ。
 2話までで私が面白かったのは、るろうに剣心の炸裂弾ネタ、「お分かり頂けただろうか」、たなくじだが、どれも「それをやるか感」が強く、自分は元ネタを知ってはいるけど誰もが知っているわけではないという絶妙なラインを突いていた。ここを突き続けるのは大変である。

 『ポプテピピック』の「フリのアウトソーシング」という手法は斬新だが、フォロワー作品が次々生まれて新ジャンルとして定着するとは思えない。絶妙なパロディをやり続けるのが大変だし、オチというフォーマットに縛られた大人にとっては、普通にフッてオトした作品の方が面白いからだ。

 と、ここまで書いてから3話を見たら、フリをアウトソーシングしてパロディオチを連発する手法は影を潜め、ほとんどがフリ-オチギャグになっていたので舌を巻いた。作り手はオチだけを連発する斬新なギャグを使って耳目を集め、視聴者が飽きる前に普通のギャグに切り替えたのだ。見事な戦略と言えよう。

 

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