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他者の必要な場所――ゼロ・グラビティ感想

(本稿は『ゼロ・グラビティ』のネタバレを含みます。)

 パリ・ダカールラリーでエンジニアはボロボロになって完走した車を調べ、壊れた箇所ではなく、壊れていなかった箇所を補強したという。壊れた箇所は壊れていても走れたのだから、完走に絶対必要な要素ではなかった。壊れていない箇所こそが必須の要素だったという訳だ。
 『ゼロ・グラビティ』(アルフォンソ・キュアロン監督)を観ると物語に絶対必要な要素が分かる。物語にとって必須ではない要素を極限まで削りこんでいるからだ。

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 まずに目的について考える。物語の主人公はしばしば誰かのために頑張る。自分のために頑張っているより誰かのために頑張っている方が崇高な感じがするからだ。恋人のため、家族のため、仲間のため、世界のため。主人公は様々なもののために努力する。だが、『ゼロ・グラビティ』を観ると、誰かのために頑張るというのがある種のドーピングであることが分かる。

 本作は事故により宇宙に投げ出されてしまったライアンが地球へ帰ろうと奮闘する物語だ。ライアンは最愛の娘を亡くしてしまっており地球に帰還しても誰かが待っていてくれるわけではない。彼女は単に自らが生き残るために頑張る。それだけで十分心打たれる。誰かのために頑張るなどというのは、頑張りに複数人の想いを積みましすることで感動を水増しするためのテクニックに過ぎない。
 七人の仲間の想いは主人公に託された、という場合、主人公の想い30に10×7の仲間の想いを積みましして、合計100にしている。だが、主人公の想いをブラッシュアップして30から100にしてしまえば、余計な積み増しをしなくても十分心打つ物語を作ることができるのだ。

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 次に登場人物について考える。『ゼロ・グラビティ』の主要登場人物は何とライアンとマットの二人しかいない。ほとんどの物語には敵対者が登場するが、本作を観ると困難な状況さえあれば敵対者は必須ではないことが分かる。
 本作に登場するのは主人公と援助者だ。本作を観ると、成長物語において他者がいつ必要なのかが分かる。

(以下重要なネタバレを含みます。)

 本作において他者が登場するのは二箇所ある。序盤と主人公最大の危機だ。
 序盤において、他者は主人公を教え導く贈与者(師匠)として登場する。主人公は船外活動ユニットを持っておらず、自力で移動することすらままならない。主人公は贈与者にロープで繋がれ、牽引される形で移動する。これは主人公が主体的に行動する力を持たない無力な存在であることを明快に可視化している。
 成長物語は主人公の変化を描くものだ。物語序盤において師匠が必要なのは、主人公に技能を習得させるという実際的な意味と共に、主人公が成長後の姿と比べ、無力な存在であることを示すためだ。本作前半で、主人公が援助者に引っ張られて飛んでいたからこそ、終盤で、自ら飛ぶ姿が心を打つのだ。
 成長物語では逆に主人公が一人にならねばならない場面も存在する。それが主人公が覚悟を決めるシーンだ。本作でもマットが語っていた通り、決断は自分自身で行わねばならないのだ。

 だが、本作では大事な主人公の決断シーンの直前に他者が登場し、主人公に示唆を与える。最初にこのシーンを観た時、私はストイックな本作唯一のドーピングではないかと思った。あざとく泣かせに来たのではないかと感じ、実際泣いた。
 だが、よく考えると、他者が登場したのは主人公が覚悟を決めるシーンではない。その前の、最大の試練を迎えるシーンだ。最大の試練において主人公に寄り添うライナスの毛布として他者が必要だったのだ。
 もし主人公が他者からの助けを一切借りずに最大の試練を乗りこえることができたなら、それは主人公が元から成長が必要ないほど強いか、試練の強度が足りないのだ。独力では耐えられず心が折れるくらいまで追い詰められるような試練を乗りこえてこそ、主人公は成長する。そしてそのような試練に耐えるためには、寄り添ってくれる他者が必要なのだ。