東雲製作所

東雲長閑(しののめのどか)のよろず評論サイトです。

益城町に行ってきたので写真をアップする

 少し前に仕事で熊本県益城町に行ってきた。2016年4月14日に発生した熊本地震震源地である。撮ってきた写真を公開する。田舎町なのかと思っていたが、空港やサントリーの工場があり、活気のある町だった。

 震源断層
 田んぼの中の道路に熊本地震震源断層の割れ目が通っていた。

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 近くではトレンチ調査をやっていた。

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 こちらは麦畑の中を通っている震源断層。畑の持ち主がずれた状態を保存しているらしい。

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 ホットドック四ツ葉
 交差点脇の駐車場に廃車のような車が停まっている。いかにも怪しげだが、地元では有名なホットドック屋さんらしい。注文を受けてからトーストして出してくれるこだわりのホットドックで、サクサクしていて美味しい。

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 きやま食堂
 仮設の復興商店街の中にある大衆食堂。家族三人で営業している。価格が良心的で二度訪れた。平日の午後に行った時は、明日帰るという常連らしき復興作業員の人が、「家に帰ったらこんな時間から飲ませてもらえないもんね。」と言いながらビールを飲んでいた。

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 おまけ
 宿泊したベッセルホテル熊本空港の朝食バイキング。名物の馬肉のうま煮や辛子蓮根などメニューが豊富でビジネスホテルの朝食とは思えない豪華さである。最終日に欲をかいて力の限り取ったら腹がパンパンになり、昼ごはんが食べられなかった。

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 それにしても住んでいる千葉の写真記事は一度も書いていないのに、熊本の記事は二度も書いているというのも奇妙な話である。

影響が残るという微かな希望――Re:ゼロから始める異世界生活感想

(本稿は『Re:ゼロから始める異世界生活』第一章のあからさまなネタバレを含みます。また、第一章の感想なので、最新刊まで読んでいる人にとっては今更何を言っているんだという内容だと思われます。)

 小説家になろうで公開されている『Re:ゼロから始める異世界生活』第一章を読了。面白くて夢中で端末をフリックした。
 Re:ゼロの面白さの核にあるのは何と言っても主人公が死んだら物語冒頭まで戻ってやり直しになるという『死に戻り』の設定だろう。この設定によってスリルが抜群に高まっている。
 普通の小説では主人公が途中で死ぬことはない。死んだらそこで小説が終わってしまうからだ。従って、どれほど主人公がピンチになっても、読者はどうせ死なないだろうと高をくくって読むことになる。
 だが、本作では『死に戻り』の設定があるので、実際に主人公が死ぬ。従って、読者は主人公が突然死ぬのではないかと気が気ではない。
 さらに、『死に戻り』の設定のお陰で敵もより恐ろしくなっている。普通の小説では敵の恐ろしさを示すため、しばしば第三者を殺させる。だが本作では敵に主人公本人を殺させている。語り手が怖がっていないと読者に恐怖が伝わらない。そして、一度殺された奴と再び対峙するより怖いことなどない。

 問題は『死に戻り』は主人公の記憶以外を完全にリセットしてしまうので物語が進むにつれ、どんどん使いにくくなることだ。「一日巻き戻る」とかなら使いやすいのだが、周囲と構築した関係が完全にリセットされてしまうというのは主人公に、ひいては読者にあまりに大きな喪失感を与えるので、滅多なことでは使いにくい。
 今後一度も使わなければ、何のために『死に戻り』という設定があるのか分からなくなるので、どこかでもう一回は使うのではないかと思うが、何度も使っていると、読者がどうせこの話もリセットされるんだろ、という厭世的な気分になるのでよろしくない。中々難しい設定である。

 死と『死に戻り』=周囲との関係性のリセットはほとんど等価だ。普通の死は本人の記憶が失われて周囲の記憶だけが残る。一方、『死に戻り』は周囲の記憶が失われて本人の記憶だけが残る。
 人間は死ぬと全ての記憶を失ってしまう。にも関わらず生きる意欲を保っていられるのは自分の行動によって世界が変化するからだ。自分が死んでも自分の影響は残るということは生きる上での微かな希望である。もし誰とも会えず、何のアウトプットもできないような場所に閉じ込められたら、生きる意欲を失ってしまうのではないだろうか。

 

 

小ネタ集1703

 だいぶ更新間隔が空いてしまったが大したネタがない。そこで「しいたげられたしいたけ」の真似をして小ネタ集をやることにした。ちなみに元々はテキストサイトだったのに時々写真を載せるようになったのも「しいたげられしいたけ」の影響である。

シン・ポジ出汁が当選

 TBSラジオの『荻上チキSession-22』(平日22時~24時)を愛聴している。最近だと籠池理事長の生放送インタビューを行ったことが話題になった。
 12月の聴取率調査週間のプレゼントで、『シン・ポジ出汁』という番組オリジナルの出汁パックが当選した。これは駄目出しではなく肯定的な提案『ポジ出し』を積極的に行っていこうという番組コンセプトにちなんだダジャレ商品『ポジ出汁』にアゴ出汁を加えてパワーアップした第二弾である。だが、アゴ出汁が高価なため製作が難航し、3月になってプレゼントが到着した。

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 これが以前TBSショップで購入した『ポジ出汁』。

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 こちらがプレゼントで頂いた『シン・ポジ出汁』である。

 番組アシスタント南部さんのレシピも入っていた。

 本来なら、「『ポジ出汁』と『シン・ポジ出汁』を飲み比べる」という記事を書く予定だった。ところが私の舌がトンチキなせいで、味の違いが全然分からなかった。あえて言うなら『シン・ポジ出汁』の方が若干味が薄いような気がしたが、『ポジ出汁』が古いせいかも知れない。
 味噌汁にした所美味しかった。どうも有難うございました。


ハードディスクレコーダーが複雑になりすぎる

 私は東芝ハードディスクレコーダーREGZAに大量のアニメを録画してはせっせとDVDに焼いている。ハードディスクに残っている一番古い番組が東日本大震災の前だったので、かれこれ6年は使っていることになる。
 数年前から「HDDの状態が複雑になりました。必要な内容をバックアップの上、HDDのタイトルを一旦削除してください。」というエラーメッセージが表示されるようになった。無視して使い続けていた所、先日遂にこんなメッセージが表示された。

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 複雑になり過ぎってどれだけ複雑やねん。
 幸いなことに番組を一つ消したら「HDDの状態が複雑になりました。」に戻ったので、事なきを得た。だがそろそろ限界が近づいているようだ。


給湯器を交換

 12月後半に給湯器の追い焚き機能が故障した。サービスセンターに電話した所、もう修理用の部品がないということで交換になってしまった。
 最初に見積もりを作ってくれた所がとても高く、ネットで他の業者を探して1月半ばにようやく工事をしてもらった。
 以前の給湯器は追い焚き時間を自分で設定していた。ところが新しいものは設定温度になるようボタン一つで自動的に追い焚きしてくれる。さらに、以前は蛇口から浴槽に水を張り、時々見に行ってまだいっぱいになっていないのを確認し、テレビを見ていて水を張っているのを忘れ、気がづいた時には溢れていたりしていたが、新しい給湯器では設定した量のお湯を自動で張ってくれる「自動お湯張り機能」がついているのだ。
 最初はそんな過保護な機能などいらんわ、と思っていたが、使ってみると超便利である。だが、便利な分、内部機構が複雑化しているはずなので、故障しやすいのではないかと思った。新給湯器も旧給湯器同様十年以上持つと良いのだが。

現代の福音書――アズミ・ハルコは行方不明感想

(本稿は『アズミ・ハルコは行方不明』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『アズミ・ハルコは行方不明』(山内マリコ著、幻冬舎)読了。こんな小説は読んだことがない。
 普通の小説は何頁か読めばある程度先の展開が分かる。ミステリーなら謎の解明、恋愛小説なら恋が成就するか、成長小説なら主人公が課題をクリアするかが話の中心にあり、途中で意外な展開になっても、最終的には中心命題に話が戻ってくる。そうでないと話が散漫になって読者の興味を惹きつけておけないからだ。
 しかし本作では全く先の展開が読めないばかりか、何が中心命題なのかもなかなか分からない。本作の主要登場人物は木南愛菜、富樫ユキオ、三橋学、安曇春子という四人の若者だが、四人が四人共、将来の展望が全くなく、自分が何を欲しているかも分かっていないからだ。
 先の展開を予想して楽しむという要素は小説の面白さの内、結構大きなウェイトを占めている。ストーリーがないような前衛小説がたいていつまらないのは、先の展開が予想できないからだ。だが、本作は地方都市の若者の様子を描いた細部が抜群に面白いので、展開予想が出来ないにも関わらず面白い。これは並大抵のことではない。

 普通の物語では、目的を達成するため、主人公が努力する。もしくは恵まれた資質によって、努力しなくても目的を達成する。だが、承認欲求が満たされず、自殺寸前まで追い詰められているような人にとっては、どちらの物語も救いにはならない。追い詰められた人は頑張れと言われてもさらに追い詰められるだけだし、資質に恵まれた人の話は他人ごとにしか聞こえないからだ。
 一方、本作では偶然によって計らわれたように話が進む。冒頭でこんな小説は読んだことがないと書いたが、小説以外なら似た話が存在する。それは宗教の聖典だ。ぎりぎりまで追い詰められた人を救うことができるのは本人の努力や資質ではなく、他者からの救いの手しかない。
 宗教の開祖と山内マリコ氏は考えぬいた末、同じ結論に辿り着いた。『アズミ・ハルコは行方不明』は現代の福音書なのだ。

 

アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)

アズミ・ハルコは行方不明 (幻冬舎文庫)

 

 

南渓和尚キュゥべえ説――おんな城主直虎第6回感想

(本稿は『おんな城主直虎』第6回と『魔法少女まどか☆マギカ』のネタばれを含みます。)

 NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』(森下佳子作)は全く期待しておらず、おとわが可愛いから見始めただけだったのだが、登場人物の葛藤が丁寧に描かれていて面白い。

 第6回で主人公次郎法師は想い人の直親から、次郎法師は死んだことにして夫婦になろうと提案される。思い悩む次郎に南渓和尚が語ったのが中と伯の話だ。
 道威という王に、甲乙つけがたい二人の大臣、中と伯がいた。どちらかを選ばねばならなくなった道威は二人に饅頭を二個ずつ渡した。二人とも一個は自分で食べたが、もう一個を中は子供にやり、伯はとっておいてカビさせてしまった。一見中の方が賢明なようだが、道威が選んだのは伯だったという。
 これを聞いた私はなるほど、伯仲という言葉にはこんな語源があったのか。勉強になったわいと思い、検索してみた所、そんな古典は存在せず、南渓和尚の創作だということが判明した。つまり、南渓和尚は次郎法師が井伊家のためにカビた饅頭となるよう誘導すべく、もっともらしい話をでっち上げたということになる。
 何という卑劣漢!

 次郎に「井伊家のため、こらえてくれぬか」と頼むのならまだ良い。だが、南渓の野郎は井伊家想いの次郎ならこうするだろうと計算して、自らの手は汚さずに目的を達成したのだ。妹の佐名が恥知らずと怒っていたのももっともだ。
 なんか、こういう少女の自主性を尊重するふりをして言葉巧みに誘導し、過酷な運命を背負わせるキャラに既視感があると思ったら、『魔法少女まどか☆マギカ』のキュゥべえだった。一見善良そうな所もそっくりだ。

 ただ、南渓和尚を単純な悪と言ってしまって良いのかは疑問が残る。なぜなら、南渓和尚が次郎法師を誘導したのには、次郎が誰かの妻になるより当主になるほうが向いていると考え、次郎の幸せのためにしたという面も無きにしもあらずだからだ。
 真田丸真田昌幸もそうだが、主人公の傍らに善とも悪とも言えない偉大な存在がいると話にぐっと深みが出る。南渓和尚は物語を面白くするという意味では非常に良いキャラであると言わざるを得ない。

 

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内面のないキャラクター――けものフレンズ感想

 『けものフレンズ』(たつき監督)のキャラクターには内面がない。内面がないという言い方に語弊があるなら、外面と内面が一致していると言っても良い。
 けものフレンズは悪意のあるキャラクターが登場しないという類似点から、しばしば『ご注文はうさぎですか?』などの癒し系アニメと比較される。だが両者は全く異なっている。ごちうさのキャラクターには内面があり、葛藤を抱えていたり悩んだりする。一方、けものフレンズのフレンズ達には内面がない。サーバルちゃんが「すごーい」と言ったら心の中でもすごーいと思っているし、行動原理も危険を回避したり出口を探したりといった実際的なものばかりだ。唯一かばんちゃんだけが「自分は何者か」という内的課題を抱えているが、そのことについてくよくよ悩むような描写は見られない。

 内面と外面が一致しているため、けものフレンズにはモノローグがない。モノローグがない作品ではしばしば表情や仕草で内面を表現するが、本作では表情や仕草と内面が一致しているので、本当の感情を読み取る必要がない。見ると知能が低下すると言われているのは、全く頭を使わなくてもキャラクターの感情を把握できるからだ。
 内面のないキャラクターはアンパンマンのような幼児向けアニメの特徴である。けものフレンズも休日の朝か夕方に放映されていれば、普通の良質な子供向けアニメとして扱われてこれほど話題になることはなかったのではないだろうか。

 桃太郎のような昔話のキャラクターには内面がない。文学がキャラクターに内面を与えた。内面のあるキャラクターは葛藤したり自尊心が満たされなかったり疎外感を味わったりする。これがストーリーに深みを与えている。
 一方、仏教では内面を意識しない無我の境地こそ理想とされる。内面があるから様々な煩悩が生まれる。内面がなければ悩みもない。けものフレンズが見ると幸せになると言われているゆえんである。

 だが、けものフレンズが新しいアニメの可能性を開いているかと言うと疑問だ。けものフレンズがウケているのは、内面と外面という二枚の手札の内、内面は使わないでやってみたら新鮮だったということ。音楽で例えるなら、和音をつけずに主旋律だけ弾いてみたら新鮮だったようなものだ。だがそれは技術的には後退である。内面と外面、両方あった方が表現としては豊かなはずなのだ。

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力の及ぶ限りの努力――職業としての小説家感想

(本稿は『職業としての小説家』の内容に触れています。)

 『職業としての小説家』(村上春樹著、スイッチ・パブリッシング)は村上氏が創作について語った本だ。通常の小説の書き方本には書いていない、感覚にかんする具体的な心構えが記されていて、参考になる。

 「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直感を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力となるべきものです。

 長編小説は文字通り「長い話」なので、隅々まできりきりとねじを締めてしまったら、読者の息が詰まります。ところどころで文章を緩ませることも大事です。

 読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえているということです。

といった観点は私が今まで持っていなかったもので、目が啓かれる思いだ。

 本書を読んで強く感じたのが、村上氏は努力の人であるということだ。
 村上氏は毎日原稿用紙十枚の原稿を半年間書き続け、『海辺のカフカ』の第一稿を完成させたのだという。これは並大抵のことではない。私も休日は一日十枚書くことを目標としているが、しばしば怠けてしまって達成できない。土日の二日間ですら達成できないことを半年も続けるなんて想像を絶する。締め切り前に一日何十枚も書く作家はいるが、そういう作家も締め切りが終わったら休む。半年間ずっと同じペースで書き続けられる作家など村上氏の他にいないのではないか。
 また、村上氏はプロットを作らず、いきなり書き始めるのだという。プロットを作らないと初稿がしっちゃかめっちゃかになって書き直しが大変だが、村上氏はその労を厭わない。

 氏の作品に対する姿勢は「僕はそれらの作品を書くにあたって惜しみなく時間をかけたし、カーヴァーの言葉を借りれば、「力の及ぶ限りにおいて最良のもの」を書くべく努力した」という言葉に凝縮されている。大抵の作家は締め切りに追われて書いているので、自分の作品が「力の及ぶ限りにおいて最良のもの」であると胸を張ることはできまい。
 常に「力の及ぶ限りにおいて最良のもの」を書くべく努力している作家と、八割の出来でお茶を濁している作家がいたら、数十年後には著しい力量差が生じているだろうことは想像に難くない。

 村上氏が力の及ぶ限り努力しているのは創作そのものだけではない。
 「村上春樹氏と同程度の力を持った日本人作家は何人もいるのに、何故村上氏が飛び抜けて海外で読まれているのか? 」という謎はしばしば話題になる。この問いに対し、評論家は内容面に着目し「構造しかない」からだなどと説明することが多い。だが、本書を読むと、一番の原因は村上氏が頑張ってニューヨークのエージェントに売り込んだからだということが分かる。
 村上氏は最初に英訳版を出した講談社インターナショナルがアメリカでは新参出版社であるため営業的に成功していないとみるや、「自分で翻訳者を見つけて個人的に翻訳してもらい、その翻訳を自分でチェックし、その英訳された原稿をエージェントに持ち込み、出版社に売ってもらうという方法」をとったのだという。要は日本の力がある作家の中で、そこまでやっているのが村上氏しかいないから、村上氏が突出して売れているのである。

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)