東雲製作所

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エンタメとして評価すべき――罪と罰感想

(本稿は『罪と罰』のあからさまなネタバレを含みます。)

 『罪と罰』(ドストエフスキー著、工藤精一郎訳、新潮文庫)は人間の罪に関する深い洞察を含んだ高尚な純文学であると思われている。例えば、下巻の裏表紙には「ロシア思想史にインテリゲンチャの出現が特筆された1860年代、急激な価値転換が行われる中での青年層の思想の昏迷を予言し、強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書として不滅の価値に輝く作品である。」と紹介されている。

 作中で主人公ラスコーリニコフは独自の犯罪理論を論文として発表している。その理論とは「人間は自然の法則によって凡人と非凡人に大別される。凡人はこれは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料である。一方、ナポレオンのような非凡人は古いものを破棄するためにぜったいに犯罪者たることをまぬがれない」というものだ。
 これは今日的視点で見れば単なる中二病である。1866年に中二病の出現を予言したという点ではすごいのかも知れないが、十年後にラスコーリニコフに見せたら恥ずかしさのあまり床をのたうち回るような代物であり、大長編の主人公が延々と固執するほどのものだろうか。おかげで主人公に全く魅力がない。今まで読んだ小説の中で最も魅力のない主人公だと言っても過言ではない。

 しかもこれだけ延々と引っ張っておいて、ラスコーリニコフは献身的に尽くしてくれるソーニャの愛のお陰で救われました、というオチだったので本を壁に叩きつけたくなった。そりゃあ誰だってソーニャがいて支えてくれたら救われるけど、そんな人はいないから苦しんでいる訳で、ご都合主義にも程がある。

 全体的に作者はラスコーリニコフを甘やかし過ぎだ。途中でルージンが登場し、対決して勝つことでラスコーリニコフの方が人間として上みたいになっているが、ルージンは自分の金で人に恩を売って自尊心を満たしたがっているのに対し、ラスコーリニコフは親からもらった金で同じことをして金が尽きたら強盗殺人をしている訳で、人としてより最低なのはラスコーリニコフの方だろうと思ってしまう。

 本作では殺人の罪をいかにして償うことができるのかという問題に関しては何の回答も示されていない。ただラスコーリニコフが何の反省もないままに「考えるな、感じるんだ」という境地にたどり着いて心の平安を得ただけだ。そこに失望を禁じ得ない。

 一方、エンターテイメントとしては無駄話が多いせいであまりに長すぎるものの、面白い所はものすごく面白い。すぐに仕事を投げ出し妻に殴られて喜んでいるマゾおじさんマルメラードフの駄目っぷりがすごいし、殺人シーンの悪夢のようなビジョンはショッキングだし、ラスコーリニコフポルフィーリィの対決シーンは『すべてがFになる』冒頭ばりの緊迫感だし、ロリコンのスヴィドリガイロフがドゥーニャにストーキングする様はスリリングだし、葬式で集まってきたのがどうしようもない連中ばかりだというシーンは作者がノリノリで書いているのが伝わってきて楽しい。キャラ立ちがすごいので何を書いても面白く、滅茶苦茶な展開でも豪腕でねじ伏せられてしまう。

 『罪と罰』は深遠な純文学としてではなく、エンターテイメントとして評価すべきではないだろうか。

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)