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人間は変わらないのか――仕事に効く教養としての「世界史」感想

 『仕事に効く教養としての「世界史」』(出口治明著、祥伝社)はライフネット生命社長にして読書家としても知られる出口氏による世界史概説書だ。「この本は、僕が半世紀の間に、見たり聴いたり読んだりして、自分で咀嚼して腹落ちしたことをいくつかとりまとめたものです。」という作者の説明が本書の性格を端的に表している。世界史の出来事が列挙されているのではなく、世界史の勘所が作者の実感を伴った解釈でまとめられている。従って、本書は大変分かりやすく、面白い。

 本書には参考文献がついておらず、正しいのかどうなのか分からないじゃないかという批判がある。
 だが、歴史には事実と解釈がある。例えば、「野田政権による解散総選挙民主党は勝利し、政権を維持した。」というのは客観的事実に反しているので間違いである。だが、「総選挙で何故民主党は敗北したのか?」という問いにはいくつもの答えがある。「消費増税を決めたから。」「官僚を上手くコントロールできなかったから。」「内輪もめをしたから。」どれも間違いではない。歴史には複数の解釈があり、事実に反していない限り、どの解釈にも一面の真実がある。従って、本書の解釈が歴史学者の通説と異なっていても、ただちに間違いだということはできない。


 本書で特に感心したのは中国史だ。諸子百家始皇帝と聞くと、紀元前の現代とは全く違う時代のことだと思いがちだ。だが、出口氏は現代とさほど変わらないのではないかという解釈を提示する。

 諸子百家は必ずしも対立していたのではなく、棲み分けていたのではないか。老子孔子が対立していたのではなく、それぞれのポジションをきちんと取っていた。法家は霞ヶ関儒家アジテーション墨家は平和デモ、それを冷ややかに見ている知識人は道家というように、棲み分けていたのではないか。
 
 そのように考えると、いまの中国も結局のところは、始皇帝のグランドデザインを超えていないという気がします。中央がすべてを取り仕切り、官僚を送って文書行政で統一的に支配するわけです。ただ、建て前だけが変わっていて、政府の建て前は共産主義です。人民は儒家の高度成長を信じていて相変わらず金儲け。知識人は冷ややかに見ている老荘であるということも含めて、社会の構図は基本的には何も変っていない気がします。


 本書には、出口氏の人間は本質的には変わらないという思想が通底している。だが、果たしてそうだろうか? 現代の日本はかつてない少子高齢化社会を迎えている。インターネットの登場によって人々の意識は大きく変化した。現代社会は過去の歴史的知見が適用できない特異な社会なのではないだろうか。

 そんなことを考えている時に、トランプ大統領が誕生した。そして出口氏の慧眼に脱帽した。トランプ大統領の誕生が本書に書かれている朱元璋の明建国と同じだったからだ。

 元のクビライはユーラシア各地の王族に銀塊をばらまくことで、各地の王族→各地の商人→中国商人→クビライという大循環を作り出した。それによって元は大いに繁栄したが、グローバリゼーションの蚊帳の外に置かれた農民達の不満が高まった。やがて貧農出身の朱元璋が明を建国。海禁(鎖国)政策を採る。これによって国力が衰退し、清の時代のアヘン戦争によって中国は完全に没落してしまう。
 これはまさに今日の世界で起きていることそのものではないか。

 やはり人間は本質的には変わらないらしい。過去と同じ過ちを犯さないため、多くの人に手にとって欲しい本だ。

 

仕事に効く 教養としての「世界史」

仕事に効く 教養としての「世界史」

 

 

神田カレーグランプリ2016感想

 11月5,6日に神田の小川広場で開かれた神田カレーグランプリグランプリ決定戦に行ってきた。6日の13時過ぎについた時はラッシュ時の駅のホーム並みの大混雑で、ゆっくりしか前に進めないような状態だった。

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 カレーグランプリは事前の予選期間の投票での上位20店が会場のテントでカレーを販売。カレーを一皿購入する毎に一枚もらえる投票券を、投票所の気に入ったカレー店の箱に投票する仕組みだ。そこで、各店色々と戦略を練って望んでいた。

 まず最初に食べた「とろ肉 魚とん」は一皿の量を絞り、300円という低価格で勝負していた。私がまず魚とんの「とろ肉ライスカレー」を食べたのは安かったからなので、この戦略は有効だったと言えよう。

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 次に食べた「100時間カレーB&R 神田店」は提供スピードで勝負していた。大勢の店員を揃え、注文前にカレーを盛り付けることで、四種類もカレーがあるにも関わらず、他店より素早くカレーを提供していた。流石一昨年の覇者だけあって、戦い慣れている。

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 一方、三番目に食べた「アジアンダイニング シディーク 神保町店」は満腹戦術という全く別のアプローチで攻めていた。二種類のカレーに加え、ご飯の上に大きなナンが乗っており、ボリュームたっぷりなのだ。もし最初にシディークのカレーを食べていたら、これだけ食べて帰っていたことだろう。そうなれば、必然的にその人はシディークに投票することになる。何という巧妙な作戦! いや、単にサービス精神が旺盛なので量が多いだけかも知れないが。

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 「とろ肉ライスカレー」はスプーンで切れるとろ肉が素晴らしく、100時間カレーの「チキンカツカレー」はルーの旨味が超濃厚。シディークの「2カレーセット」は変わり種のグリーンカレーとクリーミーなカレーの二種類が味わえてお得だった。
 どれも美味しかったので、私は食べた三店に一枚ずつ投票した。本当にどのカレーが美味しいか審査するのなら、格子仕切りの皿に一口ずつ20店のカレーが載っているセットを販売して食べ比べる方式にした方が良いんじゃないかと思うが、手間がかかるので現実的ではないんだろうな。


追記:グランプリは「100時間カレーB&R 神田店」が獲得したとのこと。おめでとうございます。

kanda-curry.com

PPAPは般若心経

 PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)は般若心経だ。曲最後の「ペンパイナッポーアッポーペン」の部分が般若心経最後の真言「ギャーテーギャーテー ハラギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカ」に相当する。さらに、PPAP全体の内容も般若心経と共通性がある。

 

1末尾が共に意味がない文言から成っており、唱えることで一時的に煩悩を消し去る効果がある。
 「ペンパイナッポーアッポーペン」や「ギャーテーギャーテー…」を実際に唱えてみればよく分かる。唱えている間は余計なことを何も考えていないことに気づくだろう。最近はてなで話題になっている瞑想と同じ効果があるのだ。

 唱える呪文――真言は深い意味がないことが重要だ。「ペンパイナッポーアッポーペン」に意味がないことは明らかだが、「ギャーテーギャーテー…」も「往ける者よ、彼岸に往ける者よ、悟りよ、幸いあれ」ということなので深い意味はない。
 これらの代わりに「雫。大好きだ!」などと唱えれば、頭がたちまち煩悩まみれになってしまう。唱えるのは過去の経験への連想が働かない文言である必要があるのだ。
 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経といった念仏・題目真言と同じ効果を持っている。阿弥陀仏法華経との思い出がトラウマになっている人などというのはいないので、唱えるのに適当なのだ。

 真言や念仏・題目はリズミカルで唱えやすい必要もあり、その点でもペンパイナッポーアッポーペンは優れている。言語学的には既に佐々木あらら氏の素晴らしい考察があるので、本稿では割愛する。


2共に色即是空について述べている。
 PPAPは意味あるものが無意味なものに変転する過程を説明した歌だ。
 最初の段階で、「私」はペンやリンゴ、パイナップルを持っていると認識している。
 それらを組み合わせたアップルペン、パイナップルペンは使いにくそうではあるが、果物の飾りのついたペンという一応意味のあるものになる。
 だが、それらをさらに組み合わせたペンパイナッポーアッポーペンとなると、もはや意味不明である。重すぎてペンとして使うのは難しいし、分解しないと食べることもできない。ペンパイナッポーアッポーペンは何物でもない。

 PPAPは、ペン、リンゴなどを所有していると思っていても、それらは確固としたものではなく、容易に意味のないものに変化しうるということを述べている。これは般若心経の、色即是空の教えに近い。
 般若心経はこの世の全てに実体がないと言っているのに対し、PPAPは実体がないとまでは言っていないという点は異なっている。だが、万物は変化し、認識は不確かであると説いている点で、両者の主張には共通点が多い。


 PPAP作詞者のピコ太郎氏が般若心経をどの程度意識していたのかは分からない。インタビューでは言及がなかったので、全く意識していない可能性も高い。
 私が感銘を受けたのは、PPAPは誰も不幸にすることなく、多くの人の幸福度を少しずつ高めたということだ。笑いには誰かを傷つけるものが多いが、PPAPにはそういう毒がない。
 ピコ太郎氏は人々を幸せにしようと考え、同じ思いから書かれた般若心経と結果的に似ることになったのではないだろうか。

 

※わっとさんのご指摘を受け、修正しました。南無妙法蓮華経は題目というのを知りませんでした。

 

関連記事:そんなの関係ねぇはお経

 


PPAP Pen Pineapple Apple Pen

なすすべもなく負けると涅槃の境地

 私は千葉ロッテマリーンズのファンだ。だが、球場に足を運ぶのは、2シーズンに1回ぐらいだった。マリーンズは12球団で最も観客動員数が少ないことで知られているが、それは私のような不熱心なファンのせいである。
 しかし今シーズンはファンクラブ会員になったこともあり、2回応援に行った。去年までは計3回なので大幅増である。

 過去3回、私が行った試合は全てマリーンズが勝った。それは私が強運の持ち主だから――ではなく、予告先発投手を見比べて、勝てそうな試合の時に応援に行っていたからである。
 しかし今年はむしろ劣勢そうな試合の時に応援に行った。負けそうな試合こそ応援の力が必要とされているのに、勝てそうな試合だけ行くとは何事か。お前はそれでも真のマリーンズファンか、と考えた――わけではなく、そうする事情があったのだ。

 最初に球場に行ったのは5月6日の対オリックスバファローズ戦。ロッテの先発はしばらく二軍で調整を続けていて、久々に一軍で登板する唐川。対するオリックスはエースの金子。あまり勝てそうもない。
 だが、この日はバリュー試合に設定されており、外野応援席の値段がわずか千円だった。安い! というわけで応援に出かけた。
 結果は5対0でオリックスの勝利。唐川は7回2失点と頑張ったのだが、金子にロッテ打線が散発の4安打に押さえこまれ、あまり点が取れる感じがしなかった。

 二回目に観戦に行ったのは 8月13日の対ソフトバンクホークス戦。ロッテの先発はルーキー関谷。対するソフトバンクの先発は千賀。千賀は当時8勝1敗と絶好調。しかもロッテはソフトバンクに三試合に一回しか勝てていない。戦う前から劣勢は否めない。
 だが当時、ロッテはソフトバンクに引き離されているものの二位であり、ここでソフトバンクを三タテにできれば、優勝の可能性もあった。そして私の手元にはファンクラブ入会の際にもらった内野自由席の無料券があった。ぐずぐずしていると、無料券を使い損ねてしまう。というわけで応援に出かけた。
 結果は3対0でソフトバンクの勝利。関谷は7回3失点と頑張ったのだが、千賀にロッテ打線がわずか1安打に押さえこまれ、全く点が取れる感じがしなかった。 
 
 試合終盤に逆転されて負けるととても悔しい。だが、このようになすすべもなく負けると悔しくない。悲しくもない。感情は動かず、ただ幸福値だけが下がったような気分だ。太陽は東から上る。枯れ葉は木から落ちる。弱いほうが負ける。何の不思議があろうか。

 

 唯一嬉しかったのは、ファンクラブ特典としてオリックス戦ではピンバッチ、ソフトバンク戦ではブランケットがもらえたことだ。

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このブランケット、一見普通のマリーンズ柄なのだが、開けてみると――

 

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 涌井選手と清田選手の等身大ブランケットになっているのだ!

 

 これを見て抱きまくらみたいで使いづらいと思ってしまうのは私のマリーンズへの愛が足りないからだろうか。

文末のリズム――モコ&猫感想

(本稿は『モコ&猫』の結末部を丸々引用しています。つまりもろネタバレです。)

 『モコ&猫』は『このたびはとんだことで 桜庭一樹奇譚集』(桜庭一樹著、文春文庫)の巻頭をかざる短編だ。胡麻油の瓶みたいに黒光りした女子大生「モコ」と彼女のストーカー「猫」の両片思いを描いている。ひたすらモコを見るだけで付き合おうとはしない猫の偏執的な様が気持ち悪いのだが、あまりに好きすぎて断られたらと思うと想いを告げられないという大学生の心の動きがリアルで、昔を思い出して胸が締め付けられる。

 いちばん最初に会ったとき、ぼくのモコはちょっとばかりおかしな服を着ていた。確か……大学のなんかの講義の途中だったと思う。詳しいことはぜんぶ忘れた。だってあれから十年近く経ってる。しかたない。ぼくも、モコも、じゅうはちだった。ぴちぴちだった。そんなころのことをいまもよくおぼえてるはずがない。

 砕けた語り口が印象的な、躍動感のある書き出しだ。文末を見ると「た、う、た、る、い、た、た、い」となっている。文末をバラエティ豊かにすることで、リズムを生み出している。「じゅうはちだった。ぴちぴちだった。」と短く「た」を重ねているのも効果的だ。

 一方、結末部では、全く逆の手法が用いられている。

 この気持ちはなんだろう。
 暗く、ガランとした座席から、スクリーンを見上げ続けた、この気持ち。
 ぼくは、まちがっても聞こえないように、小さなかすれ声でつぶやいた。
「……愛してるんだよ、モコ」
 タクシーが走ってきたので、手を挙げた。
 後部座席に乱暴に押し込むと、モコは顔を上げて、酔っぱらいそのものの潤んだ瞳でいぶかしそうにぼくを見た。ぼくは満面の笑みを浮かべて路上から手を振った。
 モコもきょとんとした顔で手を振りかえした。
 唇が、たぶん「ね、こ」という形にちいさく動いた。タクシーのドアが閉まり、夜の街を走りだした。ぼくは立ち尽くして見送っていた。着慣れないスーツのせいで肩がこっていた。タクシーが赤信号で停まった。モコはこちらを振り返り、かなしそうに、まるで売られていく牛のように首をかしげて僕をみつめていた。
 やがて信号が青になり、タクシーがすごい勢いで遠ざかっていった。窓越しのモコの顔も、かすんで、光って、よくわからないシルエットになり、視界からゆっくり消えた。

 それで、それきり、モコに会ってないのだ。

 情景がありありと浮かんでくる別れのシーンであり、タクシーが一度停まることによって二人の離れ難さを表現している所なども実に上手いのだが、私が特に感心したのはその文末だ。
 「……愛してるんだよ、モコ」と「それで、それきり、モコに会ってないのだ。」の間に12文も「~た。」を重ねているのだ。これによって猫の押し殺した感情を表現し、その両サイドにある二文をくっきりと浮き上がらせている。脱帽だ。

 『モコ&猫』のような傑作を読むと、こんな鮮やかな小説は自分には絶対書けないと匙を投げてしまいそうになる。だが、このようなすごい小説であっても、『文末の「た」を重ねる』といった技術の裏打ちによって成り立っている。
 凡百の徒が桜庭氏のような作家に近づくために出来ることは、技術を学ぶことしかないのではないだろうか。

 

 

はてなーの手斧は何のため?――リンゴ日和。移転について

 リンゴ日和。がライブドアブログへ移転したはてなは一つ優れたコンテンツを失ってしまった。
 先ごろからのリンゴ日和。へのバッシングには腸が煮えくり返る想いだった。ひどいコメントに、低評価ボタンがあれば一万回くらい連打してやるのにと思って歯噛みしていた。

 リンゴ日和。へのバッシングは在特会生活保護バッシングと同じ構造を持っている。どれもが、ずるをしていると言いがかりをつけて自分が気に食わないマイノリティを排除しようとしているのだ。
 ひーたむさんがはてなのルール違反をしていないことは明らかだ。もしひーたむさんのような著名ユーザーがルール違反をしていたら、運営がアカウントを停止するはずだ。はてなの公式ルールに反しているという以外の批判は全て、単に俺が気に食わないと言っているのと変わらない。

 はてなでは言葉の手斧を投げ合う一匹狼が幅を利かせており、ひーたむさんのように穏やかに話し知り合いと仲良くできるような人は少数派だ。
 私は独身で友達も少ないので、一匹狼の気持ちも分かる。幸せな家庭を築き、プロエッセイストデビューしているひーたむさんが羨ましい、妬ましいという気持ちは私の中にもある。だが自分の鬱憤を晴らすために手斧を投げるのは間違っている。そういうことをする人は、手斧が相手を傷つけるという当たり前のことを忘れているとしか思えない。

 はてなーが手斧持っているのは多様性を圧殺しようとする者に立ち向かうためで、気に食わない者を排除するためではない。手斧を投げていない人にいきなり投げつけるような手斧は害悪でしかない。
 はてなはインターネットの中では在特会的なものに批判的なコミュニティだと思っていた。普段は手斧を投げ合っているブクマカー達が、人権を侵害するようなニュースには一致団結して批判に回る様を頼もしく思っていた。そんなはてなでこうしたバッシングが起き、心ないコメントに多くのスターがついたことに私はショックを受けた。

 多様性を尊重せず、寛容の精神を失った集団は衰退する。過去、多くの集団が、せっかく生まれた新しい芽を古参が「こんなのは○○じゃない」と潰すことで衰退していった。はてなーも同じ過ちを犯していないだろうか。はてなには大好きなブクマカーやブロガーが沢山いるのでそんなことにはなってほしくないのだが。


 ひーたむさんには新天地での活躍を期待しています。スマホを持っていないので、LINEによる更新通知は受けられませんが、ぼちぼち見に行こうと思います。 

 

ringobiyori.blog.jp

みるみる短編小説が書ける羅生門メソッド

 芥川龍之介の『羅生門』をご存知だろうか。国語の教科書に載っているので、ほとんどの人が一度は読んだことがあるだろう。
 名短篇は数あれど、羅生門ほどお手本に相応しい短編は他にない。例えば『走れメロス』は「行って帰って行く」という変わった構造をしているし、『注文の多い料理店』はショートショートのようなアイデア重視の作品、『山月記』は途中で視点人物が変わるといった風にどれも真似するには向いていない。一方、羅生門は行って帰ってくることで成長するという物語の基本パターンに忠実で、要素も必要最小限に切り詰められているので初心者が真似するのにぴったりだ。
 羅生門のあらすじは以下のとおりだ。

1下人が羅生門の下で雨やみを待っている。
2下人は主人から暇を出されて行くあてがない。生きるためには盗賊になるよりほかに仕方がないが、決心がつかないでいる。
3下人は夜を明かすために楼の上へ上がる。
4そこでは死骸がごろごろ転がっている中で、老婆が死骸の髪の毛を抜いていた。
5「何をしていた。」と問い詰める下人に老婆は「悪い事かも知れぬが、せねば饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃ。」と弁解する。
6下人は、盗人になる決心をし、老婆の着物を剥ぎとって去る。

これを抽象化すると以下の六要素になる。
1主人公がいる日常世界の描写。
2主人公の欠落についての説明。主人公は欠落を埋めるための手段について葛藤している。
3主人公が異世界へ移動する。
4異世界の描写。
5異世界の住民が主人公に示唆を与える。
6主人公は2の葛藤を解消し、異世界から去る。

 

 それではこの6要素を使って実際に小説を書いてみよう。
 まず、2で何を欠落させているかを決める。疎外されているとか恋人がいないとか試合に負けたとか色んな例が考えられるが、ここでは羅生門と同様金がないことにする。そうすると、1は貧乏そうな場所になり、4はそことは違う場所だから金持ちそうな場所が良いだろう。ということで、羅生門メソッドの決まった箇所に書き込んでいく。すると考えるべきことが浮かんでくる。

 

1主人公がいる日常世界の描写。
貧乏そうな場所の描写。→橋の下。

2主人公の欠落についての説明。主人公は欠落を埋めるための手段について葛藤している。
主人公は金がない。→何を葛藤?

3主人公が異世界へ移動する。
何故金持ちの家に行くのか?

4異世界の描写。
金持ちそうな場所の描写。→金持ちの家。

5異世界の住民が主人公に示唆を与える。

6主人公は2の葛藤を解消し、異世界から去る。

 

 ここで考えるべき要素は二つ。一つ目は主人公は金を得るために何を葛藤しているのか。二つ目は何故主人公が金持ちの家に行くのかだ。
 金を得るために葛藤するということは仕事が大変かあるいは後ろ暗い仕事だからだ。行き先の金持ちの家は働くかどうか悩んでいる会社の社長室にすれば行く動機ができる。ここでは後ろ暗い仕事ということで振り込め詐欺をやらないかと誘われていることにしよう。

 

1主人公がいる日常世界の描写。
主人公は橋の下で極貧生活をしている。→何故帰る家を失った? 実家には帰れない?

2主人公の欠落についての説明。主人公は欠落を埋めるための手段について葛藤している。
主人公は金がなく、先輩に振り込め詐欺グループで働かないかと誘われているがやるかどうか葛藤している。

3主人公が異世界へ移動する。
主人公は振り込め詐欺会社を経営する先輩の社長室に行く。

4異世界の描写。
主人公は社長室の豪華な様子に驚く。

5異世界の住民が主人公に示唆を与える。
主人公は先輩の言動を見て共感もしくは反発する。→どんな言動?

6主人公は2の葛藤を解消し、異世界から去る。
主人公は振り込め詐欺をする決意もしくはしない決意をして先輩の会社から去る。

 

 あとは1の家を失った経緯と5の主人公に示唆を与えた先輩の言動を具体化すればプロットが完成する。
 出来あがったプロットを元に書いたのが下記の小説だ。

 

 

四ツ木

 

 荒川にかかる一本の橋。ひっきりなしに車が行き交うその下で、健一は橋脚にもたれて川を眺めていた。
 大きなコンクリートの橋脚からは間断なく車の振動が伝わってくる。見回しても目に入るのは隣の橋脚と草原、草原の向こうに見え隠れする川、そして隣に架かる橋くらいである。健一は傍らの小石を拾って投げたが、川には届かなかった。
 連日うだるような暑さが続いている。川を渡る風までもがぼわぼわと暑苦しく、健一はよれよれのシャツの胸元を扇いだ。
 健一の傍らにはビニール製の巾着袋が置いてある。中に入っているのは公園で汲んできた水道水が入ったペットボトルと数個の飴玉。敷布団代わりの新聞紙。それに数十円の小銭ばかりである。
 健一は一ヶ月前から居酒屋のバイトを無断欠勤している。アットホームな職場ですといううたい文句とは裏腹に、軍隊のような職場だった。ミスをすると容赦なくナイフを投げつけられ、延々と面罵された。三ヶ月間連続勤務が続いたある日、職場へ向かっていた足がこの橋の手前で止まり、動かなくなった。アパートに戻れば店長に捕まって何をされるか分からない。それ以来健一は橋の下で暮らしているのだ。
 耐え切れない空腹に負けて、健一は飴玉を口に運んだ。これで飴はあと三個。それが尽きれば食べるものが無くなる。
 頭の上を通る国道6号を半日歩き続ければ牛久の実家にたどり着く。頭を下げて実家に帰るしか――
 健一は首を振ってその考えを追い払った。親の反対を押し切ってアニメーターになると上京した。それなのにバイトが忙しくて学校は中退。どの面下げて帰れるというんだ。
 健一は小石を拾おうと辺りをまさぐったが、手の届く範囲にもう小石は残っていなかった。
 先日、先に居酒屋を辞めた先輩から携帯に連絡が入った。先輩は振り込め詐欺の会社を経営しており、詐欺電話のバイトを募集しているのだという。
「やるかどうかはともかくまずは見学に来てくれよ。飯おごってやるぞ。」
先輩の言葉を思い出し、健一は立ち上がった。橋を渡って先輩の会社へと向かう。
 教えられた場所は立派なオフィスビルだった。入っていく人は皆ぱりっとした格好をしている。健一は慌てて服の皺を伸ばした。
 先輩の会社はビルの上から2フロアを借りきっていた。17階が事務所。18階が社長室だ。
 健一は社長室に通された。エレベーターから下りた健一はたたらを踏んだ。床には足首まで埋まりそうな絨毯が敷き詰められ、壁は一面大理石。美人秘書の案内で入った社長室には虎の剥製が飾られ、壁には高そうな西洋絵画。漆塗りの家具には螺鈿細工が施されている。先輩は白のスーツで健一を出迎えた。
「酷い格好だな。まずはこれに着替えろ。」
先輩はクローゼットからワイシャツとスラックスを放ってよこした。健一はヨレヨレのシャツと短パンを巾着袋の奥に押し込んだ。
「おい、腹減ってないか? 」
先輩が出してくれたのはデパートの焼き肉弁当だ。口に運ぶと霜降り肉が舌の上でとろけ、旨味が爆発した。十日ぶりに飴以外のものを口にした健一の目から涙が流れた。
「お前には早速仕事を覚えてもらう。」
先輩は健一を連れて下のフロアに移動した。十人程の若者が、ひっきりなしに電話をかけている。事務所の内装は簡素で、置いてあるのは机と椅子、電話だけだ。
 先輩が入室すると、全員が電話をしながら立ち上がり、最敬礼した。先輩は手を上げて応えると、一つだけ開いている席に腰を下ろした。リストをめくって受話器を手にする。
「見本を見せてやる。一度しかしないからしっかり見ておけ。」
健一はあかべこのように頷き、じっと耳をそばだてた。
 着信音に続き、おばさんの声がした。
「あー、オレだけどさ。」
「おや、ケンちゃんかい? 」
健一の胸が跳ねた。その声が自分の母親にそっくりだったからだ。
 先輩は巧みに交通事故を起こして示談金が必要なケンちゃんを演じている。ケンちゃんは都内でサラリーマンをしているらしいから、話しているのは自分の母親ではない。だが、「本当に大丈夫なのかい? 」という声は自分の母にしか聞こえない。
 先輩が現金の引き渡し方法について指示している。ケンちゃんの母親は動転し、声が裏返っている。先輩が口角を吊り上げる。健一は手を伸ばして、電話を切った。
「あの、済みません。俺やっぱりこの仕事できません。」
先輩の怒りは凄まじかった。健一から服を剥ぎ取り、ぼこぼこに殴るとエレベーターの中に蹴りこんだ。
 しばらく、死んだように倒れていた健一が、エレベーターの中でその裸の体を起こしたのは、それから間もなくの事だった。健一は巾着袋からよれよれの服を取り出して身にまとうと、つぶやくような、うめくような声を立てながら、ビルの外まで這って出た。それからペットボトルの水道水を口に運んだ。顔を上げると、国道6号が真っ直ぐに続いていた。
 健一は立ち上がると、目の前の道を北へ向かって歩き始めた。

 


 羅生門メソッドが素晴らしいのは、はっとするようなアイデアがなくても、6要素に当てはめて考えていけば小説らしくなることだ。小説のアイデアが浮かばない人はぜひお試しあれ。


完成版プロット
1主人公がいる日常世界の描写。
主人公はブラックバイトの店長に見つからないため橋の下で極貧生活をしている。

2主人公の欠落についての説明。主人公は欠落を埋めるための手段について葛藤している。
主人公は金がなく、先輩に振り込め詐欺グループで働かないかと誘われているがやるかどうか葛藤している。親の反対を押し切って上京したので実家には帰りづらい。

3主人公が異世界へ移動する。
主人公は振り込め詐欺会社を経営する先輩の社長室に行く。

4異世界の描写。
主人公は社長室の豪華な様子に驚く。

5異世界の住民が主人公に示唆を与える。
先輩が見本として詐欺電話をかけた相手の声が自分の母とそっくり。主人公は耐えられず先輩の電話を切ってしまう。

6主人公は2の葛藤を解消し、異世界から去る。
主人公は振り込め詐欺をしない決意をして、実家に向かって歩き出す。

 

 

羅生門

羅生門