東雲製作所

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文末のリズム――モコ&猫感想

(本稿は『モコ&猫』の結末部を丸々引用しています。つまりもろネタバレです。)

 『モコ&猫』は『このたびはとんだことで 桜庭一樹奇譚集』(桜庭一樹著、文春文庫)の巻頭をかざる短編だ。胡麻油の瓶みたいに黒光りした女子大生「モコ」と彼女のストーカー「猫」の両片思いを描いている。ひたすらモコを見るだけで付き合おうとはしない猫の偏執的な様が気持ち悪いのだが、あまりに好きすぎて断られたらと思うと想いを告げられないという大学生の心の動きがリアルで、昔を思い出して胸が締め付けられる。

 いちばん最初に会ったとき、ぼくのモコはちょっとばかりおかしな服を着ていた。確か……大学のなんかの講義の途中だったと思う。詳しいことはぜんぶ忘れた。だってあれから十年近く経ってる。しかたない。ぼくも、モコも、じゅうはちだった。ぴちぴちだった。そんなころのことをいまもよくおぼえてるはずがない。

 砕けた語り口が印象的な、躍動感のある書き出しだ。文末を見ると「た、う、た、る、い、た、た、い」となっている。文末をバラエティ豊かにすることで、リズムを生み出している。「じゅうはちだった。ぴちぴちだった。」と短く「た」を重ねているのも効果的だ。

 一方、結末部では、全く逆の手法が用いられている。

 この気持ちはなんだろう。
 暗く、ガランとした座席から、スクリーンを見上げ続けた、この気持ち。
 ぼくは、まちがっても聞こえないように、小さなかすれ声でつぶやいた。
「……愛してるんだよ、モコ」
 タクシーが走ってきたので、手を挙げた。
 後部座席に乱暴に押し込むと、モコは顔を上げて、酔っぱらいそのものの潤んだ瞳でいぶかしそうにぼくを見た。ぼくは満面の笑みを浮かべて路上から手を振った。
 モコもきょとんとした顔で手を振りかえした。
 唇が、たぶん「ね、こ」という形にちいさく動いた。タクシーのドアが閉まり、夜の街を走りだした。ぼくは立ち尽くして見送っていた。着慣れないスーツのせいで肩がこっていた。タクシーが赤信号で停まった。モコはこちらを振り返り、かなしそうに、まるで売られていく牛のように首をかしげて僕をみつめていた。
 やがて信号が青になり、タクシーがすごい勢いで遠ざかっていった。窓越しのモコの顔も、かすんで、光って、よくわからないシルエットになり、視界からゆっくり消えた。

 それで、それきり、モコに会ってないのだ。

 情景がありありと浮かんでくる別れのシーンであり、タクシーが一度停まることによって二人の離れ難さを表現している所なども実に上手いのだが、私が特に感心したのはその文末だ。
 「……愛してるんだよ、モコ」と「それで、それきり、モコに会ってないのだ。」の間に12文も「~た。」を重ねているのだ。これによって猫の押し殺した感情を表現し、その両サイドにある二文をくっきりと浮き上がらせている。脱帽だ。

 『モコ&猫』のような傑作を読むと、こんな鮮やかな小説は自分には絶対書けないと匙を投げてしまいそうになる。だが、このようなすごい小説であっても、『文末の「た」を重ねる』といった技術の裏打ちによって成り立っている。
 凡百の徒が桜庭氏のような作家に近づくために出来ることは、技術を学ぶことしかないのではないだろうか。