新年もマシンガン その1:「嫌なら見るな」を撲滅したい - HINAGIKU 『らめぇ』
1前提としてaがAを好きなのは正しい
まず大原則として好き嫌いに関して議論は成立しない。
「俺は猫が好きだ! 」という意見に対し、それは間違っているという人はいないだろう。そいつが猫を好きでないと、どうして他者が判断できようか。
「猫好きは犬好きより優れている。」とか「君も猫好きになり給え。」などという意見になって初めて反論の余地が生じる。
有村氏はaとbが議論をするメリットとして以下の点を挙げている。
やりとりのなかで、aはAの魅力を、bはAの拙さを再認識し、それぞれ自らの感情、思考をいっそう明確にできる。曖昧なままに表出していた「好き」「嫌い」が、輪郭を帯びてくるのだ。
確かにそういう側面はある。だが、議論をすることによって作品理解から遠ざかるという側面もあるのではないか。
2議論をすると作品理解が深まるか
通常、人は何かが好きになる時、何らかの理由があって好きになるのではない。先に好きになり、理由は後からついて来るものだ。だから、
a:「俺はAが好きだ! 」
b:「君は間違っている。Aなど駄作だ。ストーリーはご都合主義だし、テーマがぶれているし、人として軸がぶれているし、うんたらかんたら」
a:「うーん。そう言われてみると確かにそんなに良い作品でもないのかなあ。あんまりAを好きじゃなくなってきたよ。」
となった場合、aはbによって認識が深まり意見が正しく修正されたのだろうか。
必ずしもそうではない。何故なら、当初のaは理由なくAを好きである(が故に己が感覚による自然な判断をしている)のに対し、bの意見を受けた後のaは理由故に好き嫌いを判断するという不自然なことをしているからだ。
作品には言語で論じることが出来る領域と、論じることが出来ない領域とがある。評論で扱うことが出来、討論できるのは前者のみだが、評論家はしばしば後者への敬意を欠いているように思う。
3議論には有効な範囲がある
こんなことを書くと、私が有村氏の意見に反対なようだが、そうでもない。最近も、幽霊列車とこんぺい糖感想 で建設的反論をしろと書いたばかりだし。
私が言いたいのは議論には有効な範囲があるということだ。
好きな匂いに関して議論をしてもあまり理解は深まらない。
社会保障制度に関して議論をすれば大いに理解は深まるだろう。
小説やアニメなどはその中間なので(理性と感性を共に使って理解する)、理解が深まるのは半分だ。
こう書いているのは有村氏への反論というよりむしろ自戒なのだ。