東雲製作所

東雲長閑(しののめのどか)のよろず評論サイトです。

全ての小説は走馬灯である。――海を失った男感想

(本稿は『海を失った男』のあからさまなネタバレを含みます。)

『海を失った男』(シオドア・スタージョン著、若島正編、晶文社)の表題作を最初に読んだ時は訳が分からなかった。二回目に読んだ時、意味が分かり、三回目で傑作であることが分かった。四回読んで今これを書いている。

きみは少年だとしよう。きみは暗い夜に、ヘリコプターを手にしてひんやりした砂浜を走りながら、ウィチイウィチイと早口で言っている。病んだ男のそばを通り過ぎると、その男は目ざわりだあっちへ行けと言う。

本作の冒頭で、きみと病んだ男の二人が登場する。きみは少年だとしよう、とは不思議な表現だが、きみ=読者だと考えれば、少年ではない読者も自分が少年だと思って読んでくれ、と言っていると解釈できる。
きみは途中で聡明な若者になるが、再び少年に戻る。そして最終盤で次のような真相が明かされる。

きみがその少年だとしよう。いや、その代わりに、とうとう明かすなら、きみがその病んだ男だと言うことにしよう。なぜなら、どちらも同じだからだ。そうすればきっときみにはわかる。なぜよりにもよって、激突し、ショックを受け、計測された放射能(出発したとき)と計算された放射能(到着したとき)と耐えがたい放射能(デルタの残骸の中にいたとき)に冒されても、きみが海のことを考えたかったのかが。というのは、愛と知で大地を歌うどんな詩人も、芸術家も、土地業者も、技術者も、たとえ水仙のお花畑を見てその喩えようもない美しさに思わず泣き出す子供でも、地球との親密な関係を取り結ぶことにおいては、海に生き、海とおもに生き、海の中で呼吸しただよう人間にはかないっこないからだ。

つまり少年とは激突死を間近にした病んだ男が見た幻想であり、走馬灯のように思い出した過去の自分だったのだ。だが、それならば何故作者は少年は、という三人称を用いずに、きみは、という二人称を導入したのだろうか。その答えは結末で明かされる。

そのとき彼は声をあげ、叫び出す。そして歓喜にふるえながら、まるで大魚をつかまえたみたいに、まるで技術と力の要る仕事をやり遂げたみたいに、最後の思い切った大跳躍の前でバランスを取り直すようにして、死の向こうに勝利をつかむ。「おれたちが魚をしとめた」とよく言っていたように、「おれ」という言葉を使わない。
「やったぞ」と、火星で死にかけている彼は叫ぶ。「おれたちはやったんだ!」

彼はいったい何をやったのだろうか。男はロケットで火星にやって来て着陸の事故で死にかけているのだから、普通に考えると火星に到着するというミッションをやったと解釈できる。「おれ」ではなく「おれたち」と言っているのはミッションに関わった全員の勝利だと言っているのだと。だが、男は作中ずっと一人ぼっちでサポートメンバーのことなど回想の中にも出てこないのに、結末でいきなり言及するのは不自然だ。おれたちとは男と誰のことを言っているのだろうか。

本作には男の他に登場人物がいる。それがきみ=読者だ。つまり「おれたち」とは「男と読者」ということだ。そして「男と読者」が共にやったことと言えば「生きた」ことより他にない。

走馬灯を「死を前にした人間の頭に去来するもの」と定義するならば、人間は誰しも生まれた時から死を前にしているのだから、人が頭に思い描いたことは全て走馬灯だと言える。全ての小説は、死を前にした作者が必死に紡ぎだした走馬灯なのだ。