東雲製作所

東雲長閑(しののめのどか)のよろず評論サイトです。

面白見出し力――伊集院光深夜の馬鹿力感想

 TBSラジオが6月末でポッドキャストの配信を止めてしまった。仕方ないので、深夜や昼間にやっていて生では聞けない番組の内、特に聞きたい番組だけ録音して聞くことにした。伊集院光深夜の馬鹿力もその一つである。
 ポッドキャストでは番組冒頭のフリートークが十分くらいだけ配信されていた。深夜の馬鹿力は二時間番組なので、私はニ~三十分フリートークをやった後、視聴者からの投稿ネタコーナーか何かをやっているのだと思っていた。ところが先日初めて二時間通しで聞いてみた所、伊集院氏は何と一時間以上もフリートークをやっていた。しかもそれがずっと面白い。私だったら一生分の面白エピソードをかき集めても一時間もフリートークをすることなどできない。それを伊集院氏は毎週やっているのだ。これは並大抵のことではない。

 もちろん、伊集院氏は芸能人なので、一般人よりは面白エピソードに遭遇する率は高いだろう。また、氏は元々落語家なので、話芸で面白くしている面も多分にある。だが、真に感心すべきは日常のちょっとした出来事から面白さを見出す感性ではないだろうか。

 例えば、先日氏が話していたのは「御朱印帳を全て手書きで書いてもらって集めていたのだが、番外の所だけスタンプを押されてしまいがっかりした」というだけの話であり、私だったら特に何も思うことなくスルーしてしまっていただろう。右肩下がりの日本社会では、バブル期のように派手な刺激を次々追い求めていてはすぐに行き詰まってしまう。ささやかな日常から面白さを見いだせる人と見いだせない人とでは、人生の豊かさがまるで違ってくるに違いない。

 伊集院氏が素晴らしいのは面白さを見出して自分が楽しいだけではなく、それをラジオでしゃべることで、多くのリスナーをも楽しい気分にさせていることだ。ブロガーにも、日常のささやかな面白さを見出し、他者と共有する名人が幾人も存在し、世界全体の幸福度をじわじわ高めている。面白見出し力は今後ますます重要になっていくのではないだろうか。
 

男には向かない職業――満願感想

(本稿は『満願』の内容に触れています。)

 『満願』(米澤穂信著、新潮社)は 2014年年末のミステリーランキングを総なめにした短篇集だ。中編、長編にもできそうなアイデアを短編一本ずつに詰め込んでおり、無駄なシーンが全くない。内容も耽美小説、怪談から国際冒険小説までバラエティに富んでいる。極めて完成度の高い作品だ。

 一方で本作はどの作品も読後感が悪い。読み終わるといや~な気持ちになる。
 嫌な気分になる原因の一つが、どの作品も語り手の思い通りにならないということだ。語り手のみならず、ちゃんと描写された登場人物の内、男性のやることは全て上手く行っていない。彼らの殺人計画はことごとく失敗し、探偵をやれば知りたくなかった真実を知るはめになる。「夜警」で、語り手の柳岡は自分や部下の川藤のことを警官には向かない男だと言っているが、本書では柳岡、川藤のみならず、全ての男がミステリーの登場人物に向いていない。
 一方、女性の登場人物はしばしばまんまと計画を成し遂げている。この違いはなぜ生じたのだろうか。それは、キャラクターが男性の場合、作者がキャラクターを自らの実感から切り離せないからではないだろうか。普通の人は殺人に関わることになど向いておらず、それは米澤氏とて例外ではない。
 本書で最高の完成度を誇る「柘榴」では女性キャラクターが最後に語る冷血なモノローグが全編を引き締めている。だが、雑誌掲載時との違いを検証されたサイトを見ると、雑誌掲載時の記述には冷血に徹しきれないためらいが残っていた。単行本化の際に、作者はキャラクターを自分と切り離して冷酷なことをさせることで、完成度を高めた。だが、男性キャラクターの場合、作者はそこまでのことはさせられていない。同性のキャラの場合どうしても自らを投影してしまうからだろう。

 だが私は、殺人事件になど向いていないという作者の実感は、作品と現実世界をつなぐ、大切な紐帯であるように思う。全く実感がこもらない作品は、どんなに完成度が高くても、現実とは無関係で血の通わない箱庭の中の出来事になってしまうからだ。

 

満願

満願

 

 

熊本に行ってきたので麺の写真をアップする。

 仕事で熊本に行ってきた。熊本の食事と言えば馬肉、太平燕熊本ラーメンが有名だが、生肉を食べるのは抵抗があったので、結果的に麺類ばっかり食べることとなった。

太平燕タイピーエン)

f:id:shinonomen:20160726125333j:plain

f:id:shinonomen:20160726125428j:plain

 太平燕とはざっくり言えば長崎ちゃんぽんの麺を春雨にしたようなもの。豚骨ベースのスープに魚介の旨味が溶け込んでいる。
 上が紅蘭亭の中華定食で下が八代よかとこ物産館のトマト太平燕

 

熊本ラーメン

f:id:shinonomen:20160726125522j:plain

f:id:shinonomen:20160726125541j:plain

f:id:shinonomen:20160726125601j:plain

 熊本ラーメンは豚骨ラーメンなのに表面が黒いのが特徴。黒いのはニンニクを揚げた油らしく独特の苦味がある。アレンジで入っている揚げニンニクのチップが香ばしい。
 上から順に天外天、桂花ラーメン本店、龍の家の熊本ラーメン

 

博多ラーメン

f:id:shinonomen:20160726125622j:plain

 熊本ラーメンばっかり食べていて飽きたので普通のとんこつラーメンも食べた。博多金龍のとんこつラーメン。

 

 食べた中では紅蘭亭の中華定食が一番美味しかった。太平燕は喉が鳴る美味さだったし、チャイナドレスの店員さんが給仕してくれる本格的な店なのに980円でいろいろついた定食が食べられるというのも素晴らしい。

 

 熊本の中心街は所々閉鎖された建物があるだけで普段通りだったが、郊外に行くと瓦屋根の古い家が軒並み被害を受けていた。熊本城も門の石垣が崩れたままで痛々しい。

 泊まったホテルは中心街の下通り近くだったが、着いた火曜から関東の金曜並みに人々が飲み歩いているのが印象的だった。それでは金曜はどうなるかと言うと、駐車場が満杯になって入りきれない車が延々と空車待ちをしていた。
 また、水前寺江津湖公園では筋骨たくましい高校生達が川に飛び込んではしゃいでいた。全体的に熊本人はノリが体育会系であるように感じた。文化系の人は街に繰り出してこないだけかも知れないが。

特殊な愛の普遍化――砕け散るところを見せてあげる感想

(本稿は『砕け散るところを見せてあげる』のネタバレを含みます。)

 『砕け散るところを見せてあげる』(竹宮ゆゆこ著、新潮文庫NEX)には二点不満があった。

 一つ目は帯文で伊坂幸太郎氏が指摘されている「野心的な構造」だ。私は一読して意味が分からず、「あれ、死んだはずのお父さんが生きていたの? 」などと思い、再読しても分からず、ネットで鋭い人が説明してくれているのを読んでやっと理解できた。この野心的な構造は本当に必要なのか? ただ単に分かりにくくしているだけではないのか。

 二つ目は主人公の清澄がヒーロー的行動にこだわる点だ。
 物語後半、私は何度も心の中で「お前は今すぐ警察に行け! 」と叫びながら読んでいた。清澄は誰かに助けを求めるのではなく、自らを犠牲にしてもヒーローたらんとする。
 本作では思い通りにならない悪の象徴としてUFOが語られ、ヒーローはUFOを撃ち落とす者と定義される。
 確かに、本作のようにUFOがいるという特殊な状況下では主人公はヒーローになるのが最適解かも知れない。だが、現実には撃ち落せば問題が解決するような悪=UFOなんかいないだろう。作者が作った特殊な箱庭の中の話なんじゃないか。

 だが、何度も読み返したら理解できた。作者はUFOが存在するという特殊な状況を普遍化するために野心的な構造を導入したのだ。

 本作の構造上の核となっているのは、高校三年生の男子が部屋で変身ポーズを決めている所を母親に目撃され、笑われるという何ということもないシーンだ。そこにはUFOなんか存在しない。だが、そんな日常にだって、ヒーロー的行動と通底するようなキラキラしたものは確かに存在している。
 作者はUFOがいるという特殊な状況下における愛を、UFOなどいない母子の何気ないシーンと野心的な構造を用いて接続することで普遍化した。これは普遍的な愛の物語なのだ。

 

砕け散るところを見せてあげる (新潮文庫nex)

砕け散るところを見せてあげる (新潮文庫nex)

 

 

恋愛スキル=全人格じゃない

 童貞に対し自信を持てと説いたはてな匿名ダイアリーが話題だ。

anond.hatelabo.jp

 恋愛に対し不慣れな男性に対する的確なアドバイスになっていて感銘を受けた。この筆者を師と仰ぎたい。
 この記事に対するコメントも概ね好意的だったのだが、筆者に対して怒っている人も結構な割合で見受けられた。
 特に下記の一文に対し、怒っている人が多い。

 

それからこれは強く伝えたのだが、こちとらあなたが女性と付き合ったことがないこともコミュ障なことも、顔があまりかっこよくないことも知っている。それをわかってて好きになったんだから、もっと自信を持って欲しい。

 

 批判者の主な主張は筆者が彼氏に対し上から目線で物を言っているのが良くないというものだ。

 だが、恋愛に対して初心者の彼に対し、中級もしくは上級者の彼女がアドバイスをするのだから、上から目線になるのは当然ではないか。

 例えば、あなたが武術の師範から才能を見込まれて、弟子になったとする。その後、師範から
「私はそなたが武術の経験がないことも、腕力がないことも、闘争心がないことも知っている。それをわかってて弟子にしたのだから、もっと自信を持って欲しい。」
と言われたら怒るだろうか。怒るまい。その分野では弟子が師より劣っているのは当然だからだ。

 私は彼女と彼氏の関係が全ての点で師と弟子だと言っているのではない。確かに恋愛に関しては彼女は彼氏より上級者だ。だが、他の分野では33歳童貞の彼氏の方がスキルが上なものもあるはずだ。例えば料理は彼氏の方が得意かも知れない。その場合は彼氏が彼女に料理を教えれば良い。

 

 では何故ことが恋愛だと怒る人が多いのか。それは恋愛スキルを人格と結びつけて捉える風潮があり、恋愛スキルが低いと全人格を否定されたように感じてしまいがちだからだ。
 しかしながら、実際は恋愛スキルも武術のスキルや絵を描くスキルなどと同様に、その人のごく一部に過ぎない。人間誰しも苦手なことはあり、それが恋愛だったというだけだ。

 そして初心者が能力を高めるには、上級者の言うことを素直に聞くのが一番なのだ。もし自分が恋愛スキルが低く、向上させたいと思っているのなら、「自信など持てるか! 」と怒るより、異性と接する時できるだけ堂々とふるまえるよう努力してみる方が建設的ではないだろうか。

 

エゴイスティックなしつこさ――雪国感想

(本稿は『雪国』の内容に触れています。)

 『雪国』(川端康成著、新潮文庫)は文章が全てだ。内容を伝えるために文章があるのではなく、文章を書くために内容がある。

 以下は汽車の窓に斜め向かいの席の娘が写っているシーンの一部である。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふる*えたほどだった。
 遥かの山の空はまだ夕焼けの名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔をそのなかに浮かべていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。

 何てしつこい描写だろうか。もし私が同じシーンを書いたとしたら、以下のようになるだろう。

 窓には夕闇のおぼろな風景と車内の娘とが二重写しになっていた。

 一行で終わってしまった。これはさすがに極端だとしても現代で川端程ねちっこく描写する作家はいないのではないだろうか。

 さらに不親切さも目立つ。
 例えば、「しかし色は――」の文を要約すると、「風景は感情の流れであった。」となる。作者は風景が感情の流れであるということをイメージとして捉えられない読者のことは放っておいて先に進んでしまう。作者は物事を細々と説明せず、分かる人だけ分かれば良いという態度を貫いている。その様は自己中心的と言っても良いほどだ。

 それは作中の主人公、島村の態度にも重なる。島村は十九歳のヒロイン駒子に「山から下りてきたばかりでさっぱりしたいからコールガールを世話してくれ」みたいなことを言い出すような奴であり、人間的には最低である。島村の物の見方が象徴的に現れているのが以下のシーンだ。

 彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。
 秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚をふる*わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
 窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯れ葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

 島村は倫理観で曇っていない目で世界を見ている。それが魂を冷やすような凄みを生んでいる。

 川端康成はエゴイスティックでしつこいこと描写を積み重ねることで独自の世界を構築した。読者に親切に書こうとすると似たようなものになってしまうし、しつこくなければ独自の世界が中途半端なものになってしまうからだ。
 エゴイスティックなしつこさがノーベル文学賞を獲得した原動力なのではないだろうか。

注:ふる*は亠回旦に頁

 

 

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

 

 

シミルボンに記事を書きました。

紹介するのが遅くなりましたが、シミルボンという書評サイトに本の紹介記事を書きました。

 

ブッダの真理のことば・感興のことば
猫の地球儀
ペンギン・ハイウェイ
私の男
ストーリーメーカー 創作のための物語論
ヴァンパイア・サマータイム
グレート・ギャツビー
ゴールデンスランバー
猫を抱いて象と泳ぐ
雨の日のアイリス

 

許可を得て東雲製作所の記事をリライトしたのもありますが、ネタバレNGということでかなり手を入れています。
宜しければご覧ください。