東雲製作所

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社会の総幸福量が多くなることが良いとは限らない

偉さ格差を破壊すべきという主張そのものは高潔で素晴らしい。
だが、「偉さ」格差の是正(=平等化)が、社会全体の総幸福量を増やすから良いことであるという主張には肯けない。
「劣等回避願望」と「優越願望」によって幸福量が決まっているのなら、例え「劣等回避願望」が「優越願望」よりも大きいと仮定しても、完全にフラットな状態より、ほんの少数の劣位者がいる状態が、最も、社会全体の総幸福量が大きくなる。

 仮に、他者より1単位優越している時の幸福量を+1、劣等している時の幸福量を−2としよう。
 社会の構成員が10人の場合、
 一人が1単位優越している状態では、社会全体の総幸福量は1+(−2×9)=−17
 全員がフラットな状態では、社会全体の総幸福量は0×10=0
 一人が1単位劣等している状態では、社会全体の総幸福量は−2+1×9=+7となる。

筆者の主張する通り、フラットな社会は、少数の優越者がいる社会より総幸福量は多くなる。だが、少数の劣位者がいる社会の方が、より総幸福量が多くなってしまうのだ。
ネットの炎上はまさに一人が劣等している状態だ。炎上を食らった人の幸福量が100減じても、炎上を仕掛けた101人の幸福量が1ずつ増加すれば、総幸福量は増加する。
だが、そんな状態は醜悪だし、「偉さ格差を破壊すべき」という当初の目標と矛盾してしまう。
従って、総幸福量が増加することは、「偉さ格差を破壊すべき」だということの根拠にはならない。