東雲製作所

東雲長閑(しののめのどか)のよろず評論サイトです。

熊本に行ってきたので麺の写真をアップする。

 仕事で熊本に行ってきた。熊本の食事と言えば馬肉、太平燕熊本ラーメンが有名だが、生肉を食べるのは抵抗があったので、結果的に麺類ばっかり食べることとなった。

太平燕タイピーエン)

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 太平燕とはざっくり言えば長崎ちゃんぽんの麺を春雨にしたようなもの。豚骨ベースのスープに魚介の旨味が溶け込んでいる。
 上が紅蘭亭の中華定食で下が八代よかとこ物産館のトマト太平燕

 

熊本ラーメン

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 熊本ラーメンは豚骨ラーメンなのに表面が黒いのが特徴。黒いのはニンニクを揚げた油らしく独特の苦味がある。アレンジで入っている揚げニンニクのチップが香ばしい。
 上から順に天外天、桂花ラーメン本店、龍の家の熊本ラーメン

 

博多ラーメン

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 熊本ラーメンばっかり食べていて飽きたので普通のとんこつラーメンも食べた。博多金龍のとんこつラーメン。

 

 食べた中では紅蘭亭の中華定食が一番美味しかった。太平燕は喉が鳴る美味さだったし、チャイナドレスの店員さんが給仕してくれる本格的な店なのに980円でいろいろついた定食が食べられるというのも素晴らしい。

 

 熊本の中心街は所々閉鎖された建物があるだけで普段通りだったが、郊外に行くと瓦屋根の古い家が軒並み被害を受けていた。熊本城も門の石垣が崩れたままで痛々しい。

 泊まったホテルは中心街の下通り近くだったが、着いた火曜から関東の金曜並みに人々が飲み歩いているのが印象的だった。それでは金曜はどうなるかと言うと、駐車場が満杯になって入りきれない車が延々と空車待ちをしていた。
 また、水前寺江津湖公園では筋骨たくましい高校生達が川に飛び込んではしゃいでいた。全体的に熊本人はノリが体育会系であるように感じた。文化系の人は街に繰り出してこないだけかも知れないが。

特殊な愛の普遍化――砕け散るところを見せてあげる感想

(本稿は『砕け散るところを見せてあげる』のネタバレを含みます。)

 『砕け散るところを見せてあげる』(竹宮ゆゆこ著、新潮文庫NEX)には二点不満があった。

 一つ目は帯文で伊坂幸太郎氏が指摘されている「野心的な構造」だ。私は一読して意味が分からず、「あれ、死んだはずのお父さんが生きていたの? 」などと思い、再読しても分からず、ネットで鋭い人が説明してくれているのを読んでやっと理解できた。この野心的な構造は本当に必要なのか? ただ単に分かりにくくしているだけではないのか。

 二つ目は主人公の清澄がヒーロー的行動にこだわる点だ。
 物語後半、私は何度も心の中で「お前は今すぐ警察に行け! 」と叫びながら読んでいた。清澄は誰かに助けを求めるのではなく、自らを犠牲にしてもヒーローたらんとする。
 本作では思い通りにならない悪の象徴としてUFOが語られ、ヒーローはUFOを撃ち落とす者と定義される。
 確かに、本作のようにUFOがいるという特殊な状況下では主人公はヒーローになるのが最適解かも知れない。だが、現実には撃ち落せば問題が解決するような悪=UFOなんかいないだろう。作者が作った特殊な箱庭の中の話なんじゃないか。

 だが、何度も読み返したら理解できた。作者はUFOが存在するという特殊な状況を普遍化するために野心的な構造を導入したのだ。

 本作の構造上の核となっているのは、高校三年生の男子が部屋で変身ポーズを決めている所を母親に目撃され、笑われるという何ということもないシーンだ。そこにはUFOなんか存在しない。だが、そんな日常にだって、ヒーロー的行動と通底するようなキラキラしたものは確かに存在している。
 作者はUFOがいるという特殊な状況下における愛を、UFOなどいない母子の何気ないシーンと野心的な構造を用いて接続することで普遍化した。これは普遍的な愛の物語なのだ。

 

砕け散るところを見せてあげる (新潮文庫nex)

砕け散るところを見せてあげる (新潮文庫nex)

 

 

恋愛スキル=全人格じゃない

 童貞に対し自信を持てと説いたはてな匿名ダイアリーが話題だ。

anond.hatelabo.jp

 恋愛に対し不慣れな男性に対する的確なアドバイスになっていて感銘を受けた。この筆者を師と仰ぎたい。
 この記事に対するコメントも概ね好意的だったのだが、筆者に対して怒っている人も結構な割合で見受けられた。
 特に下記の一文に対し、怒っている人が多い。

 

それからこれは強く伝えたのだが、こちとらあなたが女性と付き合ったことがないこともコミュ障なことも、顔があまりかっこよくないことも知っている。それをわかってて好きになったんだから、もっと自信を持って欲しい。

 

 批判者の主な主張は筆者が彼氏に対し上から目線で物を言っているのが良くないというものだ。

 だが、恋愛に対して初心者の彼に対し、中級もしくは上級者の彼女がアドバイスをするのだから、上から目線になるのは当然ではないか。

 例えば、あなたが武術の師範から才能を見込まれて、弟子になったとする。その後、師範から
「私はそなたが武術の経験がないことも、腕力がないことも、闘争心がないことも知っている。それをわかってて弟子にしたのだから、もっと自信を持って欲しい。」
と言われたら怒るだろうか。怒るまい。その分野では弟子が師より劣っているのは当然だからだ。

 私は彼女と彼氏の関係が全ての点で師と弟子だと言っているのではない。確かに恋愛に関しては彼女は彼氏より上級者だ。だが、他の分野では33歳童貞の彼氏の方がスキルが上なものもあるはずだ。例えば料理は彼氏の方が得意かも知れない。その場合は彼氏が彼女に料理を教えれば良い。

 

 では何故ことが恋愛だと怒る人が多いのか。それは恋愛スキルを人格と結びつけて捉える風潮があり、恋愛スキルが低いと全人格を否定されたように感じてしまいがちだからだ。
 しかしながら、実際は恋愛スキルも武術のスキルや絵を描くスキルなどと同様に、その人のごく一部に過ぎない。人間誰しも苦手なことはあり、それが恋愛だったというだけだ。

 そして初心者が能力を高めるには、上級者の言うことを素直に聞くのが一番なのだ。もし自分が恋愛スキルが低く、向上させたいと思っているのなら、「自信など持てるか! 」と怒るより、異性と接する時できるだけ堂々とふるまえるよう努力してみる方が建設的ではないだろうか。

 

エゴイスティックなしつこさ――雪国感想

(本稿は『雪国』の内容に触れています。)

 『雪国』(川端康成著、新潮文庫)は文章が全てだ。内容を伝えるために文章があるのではなく、文章を書くために内容がある。

 以下は汽車の窓に斜め向かいの席の娘が写っているシーンの一部である。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふる*えたほどだった。
 遥かの山の空はまだ夕焼けの名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔をそのなかに浮かべていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。

 何てしつこい描写だろうか。もし私が同じシーンを書いたとしたら、以下のようになるだろう。

 窓には夕闇のおぼろな風景と車内の娘とが二重写しになっていた。

 一行で終わってしまった。これはさすがに極端だとしても現代で川端程ねちっこく描写する作家はいないのではないだろうか。

 さらに不親切さも目立つ。
 例えば、「しかし色は――」の文を要約すると、「風景は感情の流れであった。」となる。作者は風景が感情の流れであるということをイメージとして捉えられない読者のことは放っておいて先に進んでしまう。作者は物事を細々と説明せず、分かる人だけ分かれば良いという態度を貫いている。その様は自己中心的と言っても良いほどだ。

 それは作中の主人公、島村の態度にも重なる。島村は十九歳のヒロイン駒子に「山から下りてきたばかりでさっぱりしたいからコールガールを世話してくれ」みたいなことを言い出すような奴であり、人間的には最低である。島村の物の見方が象徴的に現れているのが以下のシーンだ。

 彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。
 秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚をふる*わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
 窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯れ葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

 島村は倫理観で曇っていない目で世界を見ている。それが魂を冷やすような凄みを生んでいる。

 川端康成はエゴイスティックでしつこいこと描写を積み重ねることで独自の世界を構築した。読者に親切に書こうとすると似たようなものになってしまうし、しつこくなければ独自の世界が中途半端なものになってしまうからだ。
 エゴイスティックなしつこさがノーベル文学賞を獲得した原動力なのではないだろうか。

注:ふる*は亠回旦に頁

 

 

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

 

 

シミルボンに記事を書きました。

紹介するのが遅くなりましたが、シミルボンという書評サイトに本の紹介記事を書きました。

 

ブッダの真理のことば・感興のことば
猫の地球儀
ペンギン・ハイウェイ
私の男
ストーリーメーカー 創作のための物語論
ヴァンパイア・サマータイム
グレート・ギャツビー
ゴールデンスランバー
猫を抱いて象と泳ぐ
雨の日のアイリス

 

許可を得て東雲製作所の記事をリライトしたのもありますが、ネタバレNGということでかなり手を入れています。
宜しければご覧ください。

愛と諸行無常――あのね、わたしがねちゃってても、あとででいいからだっこして 感想

 刺々しい言葉の手斧が飛び交うはてなにおける数少ないオアシスがひーたむ氏の子育てブログ『リンゴ日和。』である。そのほっこり力はすさまじく、辛口で有名なxevra氏すらデレてしまうほどだ。
 その『リンゴ日和。』が書籍化された。それが『あのね、わたしがねちゃってても、あとででいいからだっこして』(今泉ひーたむ著、ワニブックス)である。
 
 通して読んで感じたのが、登場人物はほぼ家族四人だけという小さな世界を描いているにも関わらず、極めて本質的、普遍的な内容であるということだ。本書には「愛」と「諸行無常」というテーマが通底している。そのことは子どもについて書いていることと関係がある。

 子どもは愛、あなたを必要としていますよ、ということをストレートに表現する。タイトルにもなっている、長女ゆーちゃんの「あのね、わたしがねちゃってても、あとででいいからだっこして」という発言が象徴的だ。誰もが親しい人とのスキンシップを求めているが、大人になると素直に言うことができない。
 ゆーちゃんの気配りを含んだ愛情表現に対し、次女ふーちゃんのストレートな愛情表現、特にお母さんのお風呂を出待ちしているエピソードも印象深い。大人になって独身だと、こんなに誰かを必要とすることも、必要とされることもないのだと思うと切なくなる。

 時は常に流れ続け、誰であっても留めておけない。だが、子どもはすぐに変化する。従って、諸行無常ということが強調される。
 例えば、おっぱいの味が左右で違うと言うことを5才のゆーちゃんは覚えている。だが、大人になった我々は覚えていない。あまりに多くの記憶が失われてしまったのだということを思うとたまらない気持ちになる。
 「そしてこの母の想像力をかきたてる宇宙語が、成長にともなって消えていくだろうということを想像するのが、たまらなくさみしいです。」というように、作者も喪失のさみしさを何度も綴っている。

 大人になるということは本質的なものを隠蔽する術を身につけることなのではないか。日常生活であまりに心動かされていると身がもたないからである。
 ひーたむ氏は大人であるにも関わらず、本質的なものへの感度が鈍っていないので、子ども達のささやかな声を掬い上げることができるのではないだろうか。


付記:この紹介だとひたすら切ない内容のようであるが、「へい! おっぱいよ!」やパパが可愛い話のように楽しい話も多いのである。

 

 

あのね、わたしがねちゃってても、あとででいいからだっこして

あのね、わたしがねちゃってても、あとででいいからだっこして

 

 

人はいつコートを脱ぐか

 春先に皆がいつ頃コートを着なくなるのか気になったので調査を行った。
 調査方法は千葉県内の私の地元の駅で、朝8時頃にホームで電車待ちをしている乗客100名の内、コートを着ていない人を数えるという方法を採った。調査は基本的に平日の朝に行ったが、100名数え終わる前に電車が来てしまったなどの理由でデータの抜けが存在する。調査期間は2016年3月7日から4月28日である。

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図1 コート非着用率と気温の相関図1

 図1にコートを着ない人の割合(横軸)と千葉市の午前8時の気温(縦軸)のグラフを示す。気温をY,コートを着ない人の割合をXとすると、両者の関係はY=0.1007X+8.6082となった。X=9.9305Y-85.4836、すなわち春先にコートを着ない人の割合は気温*10-85で求められることが判明した。

 ただし、グラフ中の点は左右二つのクラスタに分かれている様に見える。このクラスタは調査時期の違いを反映している。

 

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図2 コート非着用率と気温の相関図2

 3月7日~4月7日を青、4月12日~4月28日を赤でプロットしなおしたものを図2に示す。4月10日の週末以前はコートを着ない人の割合は最大でも30%だが、4月10日以降は常に50%以上であることが分かる。例えば4月12日は午前8時の気温が8度とかなり寒いにも関わらず、56%の人がコートを着ずに出かけている。4月10日の週末に何があったのだろうか。

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図3 千葉市の気温の推移

 図3に千葉市の気温の推移を示す。4月7日~10日に4日連続で最高気温が20度を超えていることが分かる。このことから、最高気温20度以上の日が数日続くと、約半数の人はコートを仕舞ってしまうということが推定できる。
 今年は20度超の日が木曜日から日曜日まで続いたため、週末にコートを片付けた人が多かったのではないだろうか。週末以外に温かい日が続いた場合でも同様の結果になるかは今後の課題である。

 

結論
1)春先にコートを着ない人の割合は気温*10-85で求めることができる。
2)週末にかけて最高気温20℃以上の日が数日続くと半分の人はコートを仕舞い、以降は寒い日でもコートは着ない。

 


参考までに元データを下に示す。4月8日、11日のデータが抜けていることが悔やまれる。

月,日,非コート着用率,気温
3,7,8,15.8
3,8,17,12.9
3,9,5,11.8
3,10,2,5.2
3,11,1,3.9
3,14,1,5.9
3,15,1,7.5
3,16,8,6.8
3,17,8,10.3
3,18,22,14.5
3,22,19,8.2
3,23,,10.8
3,24,7,5.5
3,25,5,5.7
3,28,10,9.3
3,29,20,11.5
3,30,18,13.8
3,31,29,14
4,1,,13.8
4,4,28,17.8
4,5,24,10.1
4,6,25,12.4
4,7,30,16.2
4,8,,18.7
4,11,,9.8
4,12,56,8
4,13,61,13.5
4,14,62,14.1
4,15,74,18
4,18,90,19.6
4,19,88,17.6
4,20,77,13.6
4,21,,17.8
4,22,82,16.3
4,25,90,17.6
4,26,87,19.6
4,27,88,16.8
4,28,83,13.7