東雲製作所

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エゴイスティックなしつこさ――雪国感想

(本稿は『雪国』の内容に触れています。)

 『雪国』(川端康成著、新潮文庫)は文章が全てだ。内容を伝えるために文章があるのではなく、文章を書くために内容がある。

 以下は汽車の窓に斜め向かいの席の娘が写っているシーンの一部である。

 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふる*えたほどだった。
 遥かの山の空はまだ夕焼けの名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔をそのなかに浮かべていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。

 何てしつこい描写だろうか。もし私が同じシーンを書いたとしたら、以下のようになるだろう。

 窓には夕闇のおぼろな風景と車内の娘とが二重写しになっていた。

 一行で終わってしまった。これはさすがに極端だとしても現代で川端程ねちっこく描写する作家はいないのではないだろうか。

 さらに不親切さも目立つ。
 例えば、「しかし色は――」の文を要約すると、「風景は感情の流れであった。」となる。作者は風景が感情の流れであるということをイメージとして捉えられない読者のことは放っておいて先に進んでしまう。作者は物事を細々と説明せず、分かる人だけ分かれば良いという態度を貫いている。その様は自己中心的と言っても良いほどだ。

 それは作中の主人公、島村の態度にも重なる。島村は十九歳のヒロイン駒子に「山から下りてきたばかりでさっぱりしたいからコールガールを世話してくれ」みたいなことを言い出すような奴であり、人間的には最低である。島村の物の見方が象徴的に現れているのが以下のシーンだ。

 彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。
 秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚をふる*わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。
 窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯れ葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

 島村は倫理観で曇っていない目で世界を見ている。それが魂を冷やすような凄みを生んでいる。

 川端康成はエゴイスティックでしつこいこと描写を積み重ねることで独自の世界を構築した。読者に親切に書こうとすると似たようなものになってしまうし、しつこくなければ独自の世界が中途半端なものになってしまうからだ。
 エゴイスティックなしつこさがノーベル文学賞を獲得した原動力なのではないだろうか。

注:ふる*は亠回旦に頁

 

 

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))