(本稿は『まのわ 魔物倒す・能力奪う・私つよくなる』の抽象的なネタばれを含みます。)
『まのわ 魔物倒す・能力奪う・私つよくなる』(紫炎著、このライトノベルがすごい!文庫)は三人称神視点で描かれている。多くは主人公風音の視点で描かれているが、ちょくちょく他のキャラクターの視点が入り込む。また、風音が知らないことを文字通りの神の視点が語ったりする。
例えば、3巻の下記のシーンでは、一シーンにジンライと風音の視点が混在している。
そこまで言った後、ジンライは余計なことをしゃべったかと思い、次の言葉を言い淀んだ。その反応に風音の眉がひそまる。
「うーん、それって暗殺とかそういう心配もあるってこと?」
その問いに弓花が驚いた顔をするが、恐らくそれが重要だと風音のスキルである『直感』が告げていた。
たいていの小説読本では一シーンは一つの視点で描くことが推奨されている。そうしないと読者が小説に没入しにくくなるからだ。
上記の例だと読者は一行目はジンライの立場で読むが、三行目は風音の立場で読まねばならない。忙しなくて物語に集中できないのだ。
だが、まのわの場合、それこそが作者の狙いなのだ。
まのわはソードアート・オンライン以降大流行している異世界転生ものであり、主人公風音達が近未来の日本からゲームの世界に転生させられて帰れないという深刻な背景を持っている。読者を泣かせようと思えば、いくらでも泣かせられる設定である。だが、作者は感動的なシーンを抑制的に書いて湿っぽい話にしない。例えば達良の石碑を風音が読むシーンでは、風音のモノローグをほとんど入れず、話が重くなり過ぎないようセーブしている。
多視点の混在も読者が風音に感情移入しすぎないという効果を上げている。作者は風音達を突き放した客観的視点で描き出しており、それが独特のサクサク読める軽やかさを生んでいる。
ルールはルールのためにあるのではない。「一シーンは一視点で描け」というルールも、読者の没入を妨げるからだという理由とセットで理解しておかないと意味が無いのだ。