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すずめの戸締まり感想

(本稿は『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます。)

『すずめの戸締まり』は新海誠監督の最新作だ。公開初週に観たのだが、消化するのに時間がかかり、なかなか感想がまとまらなかった。
観た直後は『君の名は。』>『すずめの戸締まり』>『天気の子』という評価だったのだが、原作小説を読んで考え続けているうちに色んなことが見えて来て、『君の名は。』と匹敵するぐらい評価が高まってきた。
新海監督は震災について11年間考え続けて本作を作った。はてブでは「こことこことここが良く分からん。駄作!」みたいな感想が話題になっていたが、たった一週間で何が分かると言うのか。駄作と判断するのはせめて新海監督の百分の一ぐらいの時間をかけて考えてからでも遅くないだろう。

本稿では2点について論じる。1は軽度のネタバレ、2は重度のネタバレを含む。まだ観ていない方は鑑賞後に読むか、1だけ読んで頂けると幸いだ。

 

1草太が椅子になる7つの利点(軽度のネタバレ)

本作ではヒーローである草太が神の力によって椅子に姿を変えられてしまう。この設定が素晴らしい。
草太が椅子になることには7つのメリットがある。
1)草太を人間に戻すという目的が生じる。
物語には目的が必要だ。椅子の姿では明らかに社会生活上不都合があるので、主人公達が草太を元の姿に戻そうとするのを観客の誰もが納得できる。
2)草太の力を削ぐことで、鈴芽の助力が必要になる。
姿を変えられるにしても、虎や怪物などでは強いので、草太が独力で問題を解決でき、鈴芽が同行する必要がなくなってしまう。全然扉を閉められない非力な子供用椅子にすることで、鈴芽が同行する理由が発生する。
3)移行対象である椅子を鈴芽に寄り添わせることができる。
鈴芽にとって椅子は移行対象(子供が親からの分離不安を乗り越える時に寄り添う存在。ライナスの毛布)だ。草太を椅子にすることで、自然に椅子を鈴芽に寄り添わせることができる。
4)イケメンが子供用椅子というギャップが面白い。
イケメンである草太が子供用椅子になり、格好良い声でしゃべっているというギャップだけで面白い。
本作はギャグシーン満載で、映画館でもたびたび笑い声が起きていたのだが、コメディー映画として評価する声があまりないのは不思議だ。
5)3本脚の椅子による斬新なアクションが描ける。
アニメーションキャラクターはほとんどが2本脚か4本脚であり、3本脚のキャラクターは見たことがない。
本作ではさらに椅子の姿に慣れていない序盤のよたよたした動きと、慣れてきた後の軽快なアクションを描き分けるという困難な課題に挑み、クリアしている。
6)人間椅子のようなフェティシズムをさりげなく描ける。
草太を椅子にしたことで、鈴芽との間のフェティッシュなコミュニケーションを描くことに成功している。
本作には草太を椅子にしてしまったが故にエロスに欠けるという批判がある。その指摘には一理あるが、女子高生に膝の上に座られたり、踏まれたりする話と考えると十分エロい。その一方で、一見健全なので、昔のPTAみたいな観客からの批判も避けることができる。
7)移行対象と恋愛対象を同時に失わせることで、鈴芽に最大のダメージを与えることができる。(重度のネタバレのため反転)
成長物語では、物語のミッドポイントで主人公をどん底まで叩き落すことで今までの自我を粉砕し、新たに成長した自我の形成を促す必要がある。落下が強ければ強いほど、クライマックスにおける上昇のカタルシスが強くなる。
本作では恋愛対象を移行対象の姿に変えることで、鈴芽から恋愛対象と移行対象を同時に奪い、最大級の強さで奈落の底に叩き落とすことに成功している。

物語を作る時は、一つの設定に二つの意味を持たせられれば御の字だ。7つもメリットがある設定など、私には他に聞いたことがない。


2見る者によって姿を変える常世のような作品(重度のネタバレ)

本作にはいくつものストーリーラインがある。
映画館で配布された「新海誠本」に記されていたこの物語の三つの柱は
1つは、2011年の震災で母を亡くしたヒロイン・スズメの成長物語。
2つめは、椅子にされてしまった草太と、彼を元の姿に戻そうとするスズメとの、コミカルで切実なラブストーリー。
3つめは、日本各地で起きる災害(地震)を、『後ろ戸』というドアを閉めることで防いでいく「戸締まり」の物語。
だが、それぞれの中にも複数の要素が平行して語られる。

私は鈴芽とお母さんの物語が特に印象に残った。
常世から戻った鈴芽は「――私、忘れてた」「大事なものはもう全部――ずっと前に、もらってたんだ。」と言う。
最初は未来の自分から子供用の椅子を受け取ったことを言っているのかと思ったのだが、後から原作小説を読んでみて、お母さんから椅子を、椅子に象徴されるたっぷりの愛情をもらったことを言っているのだと気がついた。

本作において椅子はお母さんとの分離不安を紛らわすための移行対象だ。物語開始時点で、鈴芽はお母さんと別れる痛みの感情を心の奥底に封印していたので、椅子を必要としていない。
しかし、改めて母との離別の感情と向き合うにあたって、再び椅子を必要とする。物語中盤で鈴芽は草太と同時に椅子を失ってしまったことから大きな喪失感を味わう。
だが、鈴芽はお母さんから誕生日に椅子を貰った日のことを思い出す。鈴芽が、お母さんと二度と会うことはできなくても、お母さんからもらった愛情の記憶は決して消えてなくならないということに気づいて分離不安を乗り越えたことに心打たれた。
最後に後ろ戸に鍵を掛ける時鈴芽が言った「行ってきます」の言葉は、常世にいるお母さんに向けて言った別れの言葉なのではないだろうか。本作は鈴芽が母との別れを受け入れる話なのだ。

ネット上で「すずめの戸締まり」の感想を色々読んだのだが、人によって見えているものが全く違うのが印象に残った。
私は六月に母を亡くしたばかりなので、お母さんに関する部分が特に印象に残ったのだろう。
作中で草太の祖父が「常世は、見る者によってその姿を変える。」と言っていたが、『すずめの戸締まり』という作品自体が見る者によってその姿を変える常世のような作品だと感じた。

 

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