東雲製作所

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推し、燃ゆ感想――少しでも良くしようする意思

(本稿は『推し、燃ゆ』のあからさまなネタバレを含みます。)

『推し、燃ゆ』(宇佐見りん著、河出書房新社)は上手く生きられない主人公あかりがアイドル上野真幸を命がけで推す小説だ。一読して、あまりの文章の上手さに驚嘆した。

あたしは彼と一体化しようとしている自分に気づいた。彼が駆け回るとあたしの運動不足の生白い腿が内側から痙攣する。影が犬に噛みちぎられてしまった、と泣く彼を見て、伝染した悲しみごと抱きとめてあげたくなる。柔らかさを取り戻し始めた心臓は重く血流を押し出し、波打ち、熱をめぐらせた。

ライブを観た。映画を観た。テレビ番組を観た。声も体格も違っていたけど、ふとした瞬間に見せる眼球の底から何かを睨むような目つきは幼い頃と変わっていなかった。その目を見るとき、あたしは、何かを睨みつけることを思い出す。自分自身の奥底から正とも負ともつかない膨大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きるということを思い出す。

推しへの熱で高揚したあかりの息遣いまでもが伝わってくる。小説でありながら、詩のような密度を持っている。こんな鮮やかな文章見たことない!


本作唯一の欠点は推しと無関係なパートの文章が精彩を欠いていることだ。あかりの日常を描いた文章は、あかりが自分自身に興味がないため、もったりどんよりしている。もちろんそれは意図的にそうしている訳だが、鮮やかで熱量のある推しの描写に比べ、日常パートはつまらない。
あかりが発達障害であることは一エピソード書けば伝わるし、あかりが目を背けたいはずの日常のことをしっかりと分量を取って描写するのは不自然だ。日常パートはざっくり削って、最後に我に返るとおにぎりにカビが生えているだけで良いのではないか。


それにしても、本作の結末はすごい。
(以下、本作の結末に触れています。)

 綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白くカビの生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。
 這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。

「綿棒をひろった。」こんなに重みのない終わり方は見たことがない。

「下人の行方は、誰も知らない。」のように、小説は持ち重りのする文で締めたくなる。
私がこの結末を思いついたとしたら、「当分はこれで生きようと思った。」で終わりにするだろう。あるいは「当分はこれで生きようと思いながら、私は綿棒を拾い続けた。」などと書くかも知れない。
だが、本作はあかりが自分の情けなさを受け入れる話なのだから、情けない、締まらない結末にすべきなのだ。

蛇足のように付け加えた「体は重かった。綿棒をひろった。」という二文から、宇佐見氏のわずかでも小説のクオリティを上げるぞという強い意思を感じた。良いものを作るには、定形に安住せず、少しでも良くしようと必死にあがくしかないのだ。