東雲製作所

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流感想―人生は素晴らしいものであってくれという祈り

(本稿は『流』の抽象的なネタバレを含みます。)

 『流』(東山彰良著、講談社)は1980年前後の台湾を舞台にしたマジックリアリズム小説だ。
 抗日戦争から現代へと続く堂々たる大河小説であり、初恋を描いた瑞々しい青春小説であり、鮮やかなミステリーでもある。それらの要素は分かちがたく結びついていて、一分の無駄もない。こんな小説を書けたら、翌日に死んでも悔いはないだろう。

 何度か訪れるクライマックスの描写が素晴らしい。ピアノの鍵盤を渾身の力で叩いているような描写と、しっとりと奏でる描写のコントラストが鮮やかだ。しっとりとした方から、読む度に泣いてしまう所を引用する。

 寝苦しくて目を覚ますと、あたりはまだほの暗く、窓のカーテンはそよともしなかった。
 豆花売りの間延びした声が漂ってくる。わたしはベッドに横たわったまま、その声がだんだん近づいてくるのを聞いていた。子供のころは、まだ夜も明けないうちに起き出した祖父が、よくこの豆花を買ってきては食べさせてくれたものだった。
 ランニングシャツを着た祖父は手に碗を持ち、青い朝靄のなかにいる豆花売りを呼び止める。ふたりは朝の挨拶を交わす。豆花売りは碗に熱々の豆花をたっぷりよそいながら、またお孫さんにかい、と尋ねる。祖父は、やっぱりあんたの豆花がいちばん美味いからね、とかえす。寝ぼけ眼のわたしが豆花に目を輝かせるところを想像し、くすくす笑いながら。この葉尊麟も年を取ったもんだ、と思っただろうか? 拳銃のかわりに豆花の碗なんぞを後生大事に捧げ持つ日がやってくるとはな。殺った殺られたの死地を駆けめぐった日々や、兄弟分を看取った夜や、無一文の裸足で広州街にたどり着いた朝のことをふりかえったりしたのかな?

 主人公が祖父のことを思い返すシーンだが、「呼び止める」「交わす」「尋ねる」と実際には見ていないにも関わらず現在形で書くことによって、目の前にありありと祖父と豆花売りの会話が立ち上がってくる。そして現在から滑らかに過去の描写へと移行することで、現在と過去が一体であることを示しているのだ。

 本作では様々な衝突の技法が駆使されている。現在と過去の衝突。シリアスなシーンとユーモラスなシーンの衝突。じっくりとした減速描写と数年間をすっ飛ばすような加速描写の衝突。分厚い小説だが、ジェットコースターのように話が進み、全くダレる所がない。

 巻頭言が本作を象徴している。
 「魚が言いました・・わたしは水のなかで暮らしているのだから、あなたには私の涙が見えません。
 本作は主人公が様々な経験をすることで、他者の涙が見えるようになる小説だ。見えるようになった時点から振り返って書いている。そのため、あらゆる情報を適切なタイミングで読者に開示することができるのだ。

 「おれたちの心はいつも過去のどこかにひっかかっている。無理にそれを引き剥がそうとしても、ろくなことにはならん
 本作では誰もが過去に後悔を抱えている。過去は変えようがないから苦しみは消えることがない。
 それだけに、宝物のような瞬間を切り取る文章が救いになっている。その後にどれほど悲しいことがあったとしても、素晴らしい一瞬は素晴らしいと感じさせてくれる。
 悲しみで素晴らしい一瞬がかき消されてしまうのだとしたら、全ての人間は死ぬのだから、全ての人生が悲しいだけになってしまう。
 『流』は人生は素晴らしいものであってほしい、どうか素晴らしいものであってくれという祈りのような小説なのだ。