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女のいない男たち感想――嵐の中では語れない

(本稿は『女のいない男たち』のネタバレを含みます。)

 『女のいない男たち』(村上春樹著、文藝春秋)は2014年に刊行された、「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェラザード」「木野」「女のいない男たち」の六編からなる短篇集だ。
 『女のいない男たち』と言うと非モテ小説のようだが、実際はNTR(寝取られ)をテーマにしている。

 作者がまえがきで
短編小説をまとめて書くときはいつもそうだが、僕にとってもっとも大きな喜びは、いろんな手法、いろんな文体、いろんなシチュエーションを短期間に次々に試していけることにある。ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろんな人物を、いろんな人称をつかって書くことができる。そういう意味では、この本は音楽でいえば「コンセプト・アルバム」に対応するものになるかもしれない。
と書いているように、本作は村上氏の多彩な技法が味わえる。
 村上氏は長編ばかり話題になるが、短編の方が上手さが分かりやすい。

 「ドライブ・マイ・カー」の文章は引き締まっていて一分の緩みもない。一方、大学生の一人称で書かれた「イエスタデイ」は緩みきっている。
 「ドライブ・マイ・カー」で豪速球を見せられた後で、ふわっとした「イエスタデイ」を読むと、大学生の一人称だからあえて緩く書いているのだと分かり、より凄さが伝わってくる。


 本作は様々な人称、文体で書かれているが、非常に短い短編である「女のいない男たち」以外は、どれも寝取られ男の一人称ではない。
 一人称で書かれている「イエスタデイ」と「独立器官」は第三者が語り手を務めている。一方、寝取られ男本人の視点で書かれている「ドライブ・マイ・カー」「シェラザード」「木野」は三人称になっている。どれも寝取られ男から距離を取って書いているのだ。
 「女のいない男たち」は唯一、寝取られ男の一人称だが、女が去って行ったのはかなり昔のことだ。ここでは時間的に距離が取られている。

 村上氏が寝取られ男から距離を取って語った理由の一つは、その方が同情を引きやすいからだろう。
 被害者本人に語らせるのは難しい。
ゴリオ爺さん』でゴリオ爺さんは哀れな境遇に陥るが、延々と「俺は何と可哀想なんだ!」と訴えるので、最初は同情していた私もだんだん白けて来てしまった。被害者は外から書いた方が、読者の同情をひきやすい。


 もう一つの理由は、男たちが寝取られたショックと男は強くあらねばならないという呪いによって視界が歪んでいるため、物事を正確に見ることができないからだろう。
 彼らの心は嵐に翻弄される小舟のように乱れているにも関わらずその自覚がないため、周囲に助けを求められず回り道を繰り返す。

 「木野」で妻を寝取られた木野は普段暮らしている東京から旅に出る。東京から遠く離れた熊本のビジネスホテルの一室でようやく「そう、おれは傷ついている、それもとても深く。」と気づく。
 東京熊本間ぐらい離れてようやく本当のことが見えてくる。嵐の中ではまともに語ることはできないのだ。