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普遍性のある苦難――約束のネバーランド感想

(本稿は『約束のネバーランド』のかなりのネタバレを含みます。)

 『約束のネバーランド』(神戸守監督、白井カイウ原作、出水ぽすか作画)は2019年冬アニメで一番面白かった。1話のラストで驚愕し、次々襲い来る試練に引き込まれっぱなしだった。

 成長物語はどれだけ主人公を酷い目にあわせられるかの勝負という所がある。だが、ここまで絶望につぐ絶望で打ちのめしてくる漫画も珍しい。
 また、知略で敵を出し抜くコンゲームものは、圧倒的不利な状況から逆転するカタルシスが肝になるが、ともすると有利な条件から逆転を許す敵がアホになってしまう。だが、本作では圧倒的に強く賢い敵と逆転のカタルシスをぎりぎりのバランスで両立させている。

 予想を超えて展開するストーリーに毎回唸りながら観ていたが、最終回には舌を巻いた。
(以下、重度のネタバレのため反転)
 11話まではヒロインエマに苦難を与える話だった。だが、12話で、イザベラに対する苦難に反転して見せたのだ。

 何かを成し遂げるには動機と知略が必要だ。主人公三人組のうちエマが動機を、ノーマンとレイが知略を担当している。
 何故知略担当が二人もいるのか分からなかったのだが、最終回で二人の役割がはっきりした。ノーマンがエマにイザベラと同じ試練を与えるために必要だったのに対し、レイは今までの人生を全否定されたイザベラに対するかすかな救いとして必要だったのだ。エマはイザベラに対し、ノーを突きつけたが、レイを救うことで、イザベラの一部を救った。全員助けるという高い理想を掲げるエマは、イザベラをも救わねばならなかったのだ。

 単に酷い目にあわせれば良いのであれば、キャラクターを血の池地獄や針山地獄に送り込めば良いが、そんなことをしても物語が面白くなるわけではない。地獄に落ちた経験のある人なら、「あー、分かる分かる。針山地獄って痛いよな」と共感するかも知れないが、普通の人はキャラクターの痛みに共感できず、他人事として処理してしまう。キャラクターの苦難に普遍性があることが重要なのだ。

 約束のネバーランドはキャラクターを単に酷い目にあわせているのではない。キャラクターの置かれた境遇が、人間誰もが死を避けがたいことの象徴になっている。限られた生の中でどう生きるかという骨太なテーマを描いているから、普遍性があるのだ。