東雲製作所

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シャブ山シャブ子をめぐる三つの論点

 少し前に、シャブ山シャブ子が話題になった。
 シャブ山シャブ子はドラマ「相棒シーズン17」第4話に登場した薬物依存症患者の主婦なのだが、鬼気迫る表情で被害者をハンマーで撲殺。取り調べでは「シャブ山シャブ子でーす! 17歳でーす!」と叫び、ものすごいインパクトで視聴者をざわつかせた。
 その回は普段は仲良しの杉下右京と角田課長が互いの信じる正義を巡って全面衝突する力の入った話で、私も食い入るように見ていたのだが、終盤に1分しか登場しないシャブ山シャブ子が全部持っていった感じだ。

 これに対し、「依存症問題の正しい報道を求めるネットワーク」(以下依存症ネット)がテレビ朝日に抗議文を出した。シャブ山シャブ子の描き方が、薬物依存症患者への偏見をあおっているというのだ。

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1リベラルの抗議対象が偏っている問題
 確かに、シャブ山シャブ子の描き方は薬物依存症患者への偏見を助長している。だが、相棒が偏見を助長しているのは薬物依存症患者だけではない。
 当該回ではヤクザが血も涙もない存在として描かれており、ヤクザに対する偏見も助長しているが、ヤクザに対する偏見を助長しているという抗議は誰からもなされていない。
 また、シーズン17の初回では金のために殺人を隠蔽しようとする資産家一家が描かれ、資産家に対する偏見を助長しているし、第3話では辞書編纂者が奇人のように描かれ、辞書編纂者に対する偏見を助長している。

 なぜ薬物依存症患者だけがダメなのか。リベラルの抗議基準が偏っているのではないかという批判はあり得る。リベラルがラストベルトの白人労働者やキモくて金のないおじさんを無視してきたという批判と通底する問題だ。

 だが、何に抗議するのかは全日本リベラル評議会みたいな団体で話し合って決めている訳ではなく、個々の団体や個人が独自に抗議をしている。依存症ネットは依存症問題に詳しい人の集まりであって、あらゆる偏見と戦う団体ではない。
 もし、「薬物依存症問題で抗議するなら、○○についても抗議すべきだ」と思うのなら、その人が自分で抗議すれば良いのではないだろうか。


2表現規制の問題点
 今回の抗議に対して、表現の自由の方が重要だと批判する人もいる。その前にキズナアイ問題が炎上していたので、表現規制=悪という意見も見られた。
 私はキズナアイに対する批判は無視して良いと思う。キズナアイNHKのサイトで聞き手を務めたことで困っている人など誰もいないからだ。
 一方、依存症ネットの批判は考慮に値する。近年、薬物依存症患者リハビリ施設の開設反対運動が相次いでいるのだという。実際に被害に遭っている人からの訴えは、聞くに値する。

 しかしながら、偏見を助長する表現を規制することにはいくつか問題がある。
 第一に、特定の作品が偏見を助長するということを科学的に立証するのが難しいという問題がある。実際に規制をしようとすると、どうしても規制者の主観による判定にならざるを得ず、公平性が保てない。
 第二に、規制をかけると、薬物依存症に関する表現自体が減ってしまうのではないか、という懸念がある。作り手に面倒事を避けたいという意識が働き、偏見を煽るような表現だけでなく、実態を伝える報道や表現まで減ってしまう恐れがある。

 多くの人が薬物依存症患者に偏見を持っているのは、フィクションによる描き方のせいと言うより、薬物依存症患者に関する報道が少ないからだ。問題表現を排除することより、トータルとしてバランスが取れていることの方が重要なのではないだろうか。

 依存症ネットの抗議に対し、テレビ朝日は誠意ある対応をし、建設的な話し合いがなされているという。
 今回の騒動を機に、薬物依存症患者に関する正しい情報が世間に広まることになれば、雨降って地固まるとなるのではないか。


3類型的キャラクター問題
 シャブ山シャブ子に関しては描き方が類型的だという批判もある。シャブ山シャブ子は薬物依存症患者のステレオタイプのようなキャラクターであり、キャラクターの練り込みが足りないというのだ。

 確かに、フィクションのキャラクターが類型的だと、薄っぺらいどこかで見たことのあるような作品になりがちだ。類型的でないキャラクターを目指すべきだという指摘はもっともだ。
 だが、それは主役級のキャラクターの場合であり、端役は類型的な方が良いのだ。

 本作において、シャブ山シャブ子は物語上、被害者を殺すという機能しか持っていない。
 シャブ山シャブ子ではなく、よりユニークなキャラクターが殺していたらどうなっただろう。例えば、紅顔の小学生がライフル銃で狙撃して殺したとすると類型的ではない。
 その場合、視聴者は何で小学生が凄腕スナイパーなの? と興味を持つ。だが、なぜ小学生が凄腕スナイパーなのかを説明している時間はない。被害者を殺すキャラクターに割ける時間は1分しかないからだ。結果として視聴者には何だったんだ、という消化不良感が残される。

 キャラクターが類型的だと視聴者はああ、そういうキャラね、と思い、納得する。時間を割けない端役は、類型的な方が都合が良い。

 様々な側面を持つ複雑なキャラクターを描くには時間がかかるため、メインキャラクターに絞るべきだ。今回だと暴力団壊滅に生涯を捧げてきた刑事は類型的でない味のある造形をされていて心に残った。

 シャブ山シャブ子はインパクトが強すぎてメインの話を食ってしまっている。端役であるシャブ山シャブ子は、むしろより類型的につまらなく描くべきだったのかも知れない。

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