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重すぎて受け止めきれない――この世界の片隅に感想

(本稿は「この世界の片隅に」の内容に触れていますが、大きなネタバレはありません。)

 『この世界の片隅に』(こうの史代原作、片渕須直監督)は解釈多様性の高い傑作映画だ。映画『この世界の片隅に』批評と考察 失ったものと、得たものとは?『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力『この世界の片隅に』の原作とアニメの距離 等、質の高いレビューも多数出ており、屋上屋を重ねることもないかな、と思って黙っていた。だが、あまりに絶賛記事ばかりなのに違和感を覚えたので、あえて批判記事を書くことにした。

 『この世界の片隅に』の欠点は情報量が多すぎることだ。TVアニメ1クール分くらいの情報量が含まれており、二時間の映画には明らかに詰め込みすぎだ。そのため、傘を使って干し柿を取るシーンのように、「これってどういう意味? 何かのメタファー?」と思っている内に次のシーンに移ってしまい、消化不良でもやもやする箇所がいくつかあった。
 また、ミッドポイントの事件では、衝撃の大きさに視聴を止めて休憩したくなった。漫画ならここで一旦本を閉じてしばらく間を置いていただろう。
 もちろん、映像作品なのだから休憩を入れることはできない。だが、『君の名は。』では瀧が衝撃的な事実を知った後、観客がその事実を受け止められるよう、ゆったりとした旅館のシーンを入れてクールダウンさせていた。『この世界の片隅に』では情報量の少ない実験的な線画シーンを事実が明らかになる前に入れ、事実が明らかになってからは観客が受け止めるための間を取らずに次のシーンに行ってしまっている。観客への負荷の高い演出で、見終わった時はぐったりと疲れていた。
 片淵監督は航空史研究家としても高名であり、呉港に停泊する艦隊を忠実に再現した描写は高い評価を受けている。だが、この映画は主人公すずの視点で描かれているのだから、すずに関係のない艦の情報まで描く必要はない。ただでさえ情報量が多いのに、物語の本筋に関係のない情報をさらに増やしたのは良いこととは思えない。

 映画を見終わった時、二人前のフルコースを出され、食べきれずに沢山の料理を下げられてしまったような気分になった。映画の見巧者や事前に原作を読んでいた熱心なファンにとって心地よい情報量の映画であり、私のような新参の凡人向けの映画ではないのだな、と疎外感を覚えた。

 批判的に書いたが、片淵監督がこれほど多くの情報量を詰め込んだ気持ちは理解できる。『この世界の片隅に』は失われてしまったものを描いた映画であり、当時を知る人はもうしばらくすると皆亡くなってしまう。自分が描かねば誰からも忘れ去られてしまうものを、どうして描かずにいられるだろうか。
 さらに言うならば、監督は意図的に、観客が、情報量が多すぎて重すぎてとても受け止めきれないと感じるように作ったのかも知れない。太平洋戦争におけるおびただしい死そのものが、重すぎて受け止めきれない事実であり、すずもそれを受け止めるのに苦しんでいたからだ。