(本稿は『ボラード病』のネタバレを含みます。)
『ボラード病』(吉村萬壱著、文藝春秋)は嫌な小説だ。普通の小説は読者にとって心地よいことを書くが『ボラード病』は嫌なことを書く。
小学五年生の主人公、恭子の視点で何気ない日常生活が描かれるが、その端々にとてつもなく不穏な空気が漂っている。恭子はフィクションで良く描かれるような可愛い女の子ではなく、読者が眉をひそめるような言動をする。特に、恭子がスーパーのトイレで三つの苺スタンプの鎖を引き千切り、便器の中に投げ入れておしっこを掛けるシーンは砂を噛んだような読後感を残す。
クライマックスで、結び合いを異常なほど重視する海塚の町に嫌悪感を感じていた恭子が遂に皆と心を通わせ、世界が美しく輝き出すシーンがある。普通の物語だと、周囲に馴染めなかった主人公が遂に仲間と心を一つにするシーンは感動的な見せ場だが、『ボラード病』ではヤバい感じしかしない。
本作で強く感じたのが、フィクションの解釈多様性だ。本作は福島第一原発事故をモデルにした三つ葉化学の汚染事故が起きた世界を舞台にしている。もし、本作がノンフィクションだったら、福島原発の事故などなかったかのように振舞っているマジョリティへの批判としてしか読むことができない。だが、フィクションでは作者=私ではない。従って、逆に、本作を放射性物質の害を過剰に恐れるあまり、真実が見えなくなっている人への批判と捉えることもできる。
本作は原発事故後の世界に対する批判であるだけでなく、フィクションに関する批判でもあると感じた。マジョリティが好むフィクションは、ポジティブなメッセージが込められ、気持ち良い結末を迎えるものばかりだ。明るく前向きに結び合うことしか存在しないことになっている海塚は読者にとって心地よいことばかり描かれるフィクションの写し絵になっているのではないだろうか。