東雲製作所

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美帆さんの母親陳述感想―N=1は十分強い

相模原障害者施設殺傷事件で植松聖被告に死刑判決が下った。
裁判で印象深かったのが、被害者美帆さんのお母さんの陳述だ。

web.archive.org

文章強度に圧倒された。これほど力強く心に訴えかける文章は読んだことがない。
なぜ、この文章がこれほど力があるのか。それは、本当のことしか書いてないからだ。

美帆さんがいろいろな曲を聴いてノリノリで踊っていたこと。すーっと人の横に来て挨拶をして、前から知り合いのように接していたこと。殺された体が一生忘れることのできない冷たさだったこと。全て本当のことだ。
本当のことしか書いてないから説得力がある。反論を差し挟む余地がない。
唯一、植松被告がかわいそうな人だと言った個所は想像だが、そこもそう思ったということは事実だ。
自分の人生を題材にすれば誰でも一作は傑作小説が書けると言われるが、実感のこもった真実は何より強い。

植松被告の主張は「意思疎通がとれない者は周囲の人を不幸にする」というものだ。美帆さんのお母さんは具体的事実を積み上げて不幸ではないという反例を示し、植松被告の主張を論破した。
それに対して記者から問われた植松被告は「不幸に慣れただけで幸せではないと思う」と答えている。これは自説に合わないデータの存在を指摘された科学者が、検証もせずに「データの取り方が悪いだけだ」と言っているようなものだ。真実を探求することより自説を守ることの方が大事だと白状しているようなものではないか。


植松被告もいくつか手記を発表している。

ironna.jp

植松被告の文章は一面の真実を突いていると評価する人もいる。だが、私から見れば美帆さんのお母さんが指で弾いただけで崩れ落ちる程ペナペナだ。

植松被告の文章は何ひとつ本当のことが書かれていない。植松被告も障害者施設で働いていた経験があるのだから、その時に感じた気持ちには本当のものがあったはずだ。
植松被告の文章に書かれているのは「意思疎通がとれない者を安楽死させる」というような抽象的結論だけであり、そういう考えを持つきっかけとなった具体的エピソードが欠落している。
番犬の鳴き声が憎しみに満ちていたなどという文学的表現に逃げず、入所者からこんなことをされて憎しみを抱いた、仕事がきついというような泥臭い事実を書くべきだ。
具体的事実の裏づけがないため、植松被告の文章は結論だけが書いてある論文のように説得力がない。

人は誰しもN=1(サンプル数1)ではなく普遍性のあることを訴えたいという欲求を持っている。植松被告が具体的エピソードを書かなかったのも、N=1のエピソードなど価値がないと思ったからかも知れない。

だが、美帆さんのお母さんの文章を読めば分かるように、N=1は十分強い。N=1のままで十分に価値があるし、普遍化する必要などない。
個々の事例から普遍的結論を導こうとすると、どうしてもいくらかの真実がこぼれ落ちる。人間は多様であるし、人の感情は一様ではない。

私にも認知症の母がいるので植松被告の問題提起は人ごとではない。部屋が散らかっていて眠れないと夜中の2時に起こされた時は殺意を覚えたし、訳の分からない話を延々聞かされるとイライラする。だが、私が作ったカレーラーメンを美味しいねえと言って夢中になって食べている様は可愛い。意思疎通がとれない者の家族が大変なのは確かだろうが、不幸だと決めつけるのは、人間と感情の多様性を無視しているが故に間違っている。

植松被告は自分がN=1の存在でしかないことに耐えられなかったのだろう。だが、自分がN=1でしかないことを受け入れ、そこから論を組み立てていかない限り、本当のことなど見出だせないのだ。