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お姉さんじゃなきゃダメなんだ――天気の子感想

(本稿は『天気の子』のネタバレを含みます。)

 『天気の子』(新海誠脚本、監督)は映像だけで観客の心を揺り動かす。花火大会のシーンはあまりの映像の美しさに泣いてしまった。
 また、晴れと雨に対して観客が抱く感情が反転するという構成は何事も捉え方次第なのだというテーマを象徴していて見事だ。物語冒頭で帆高が一人だけ雨の方へ歩いて行くシーンが象徴的伏線になっていて感心した。

 映画単体として見れば十分心揺さぶられたが、『君の名は。』と比較すると見劣りすることは否めない。
 何が違うのか考えていたのだが、自分と主人公のシンクロ率が違うということに思い至った。『君の名は。』の瀧とのシンクロ率は100%だが、『天気の子』の帆高とは50%ぐらいなのだ。

 『君の名は。』は瀧と一緒に「三葉ぁぁぁ!」と心の中で叫んでいる感じだった。『天気の子』の場合、帆高に感情移入している部分もあるのだが、いったん島に帰れば? 何なら陽菜と凪も連れて行けば? という思いが拭えない。深海監督自身、帆高に帰れば? と思う部分もあるから圭介に代弁させているのではないか。
 日常的に虐待を受けていて体にあざがあるとか、こりゃあ帰りたくないわ、と観客が納得するベタな理由を提示することもできたのに、なぜしなかったのか分からない。

 『君の名は。』では中盤で驚愕の事実が明らかになり、私も瀧同様すごいショックを受けた。ここが『君の名は。』の肝で、一気に観客と瀧のシンクロ率を一気に引き上げ、物語に没入させることに成功している。
 『天気の子』でも中盤でショッキングな事実が明らかになるが、予想の範囲内だったので、そこまでショックは受けなかった。一方、帆高は滅茶苦茶ショックを受けているので、観客との間に温度差が生じてしまっている。

 シンクロ率・没入感の差を生んでいる原因はいくつかあるが、最も大きな要因は、新海監督のヒロインへの入れ込み度だろう。
 新海監督は三葉のことはエロい目で見ているけど、陽菜のことは性的に見ていない感じがする。陽菜が服をはだけるシーンがエロくないのが象徴的だ。
 新海監督は元々欲望的な部分を隠して上品に描く作風だったのだが、『言の葉の庭』『君の名は。』で欲望をしっかり描くことで、作品の生々しさが増し、血肉が通った。以前、「君の名は。のここがキモい」みたいな記事が話題になっていたが、ナンセンスだ。キモい要素が全くない作品とは、作者が自らの内面をさらけ出していない作品ということ。作者が全身全霊を傾けて作った作品は、悟りをひらいた高僧が作ったものでもない限り、必ずキモいのだ。

 『言の葉の庭』『君の名は。』を見る限り、新海監督が大のお姉さん好きなのは明らかだ。『天気の子』でも陽菜より夏海の方がいきいきしている。
 『天気の子』最大の問題点は、ヒロインをちゃんとしたお姉さんにしなかったことだ。形ばかりのお姉さんでは意味がない。監督の情熱がほとばしるようなお姉さんらしいお姉さんでないとダメなのだ。