東雲製作所

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個性を祝福する文学――十二人の死にたい子どもたち感想

 『十二人の死にたい子どもたち』(冲方丁著、文藝春秋)は連休中に一気読みした。こんなにページを繰る手を止められない小説は久しぶりだ。
 本作は十二人が室内で議論をしながら事件の謎を解いていくという『十二人の怒れる男』のオマージュ作品だ。『十二人の怒れる男』も結構キャラが立っていたが、幾人か印象の薄い人物もいた。

 一方、『十二人の死にたい子どもたち』は十二人全員がめちゃくちゃキャラが立っており、全員に見せ場がある。
 単純な頭の良さではシンジロウとアンリが抜けているのだが、場の空気を読むことに長けていたり、逆に全く空気を読まなかったり、突然鋭い洞察力を発揮したり、ものすごくしぶとくて絶対引かなかったり、アホっぽいのにトリックスターとして場をかき乱したりと一人ひとりに強みがある。意外なキャラが強い奴を打ちのめしたり、突然牙を剥いたりして飽きさせない。剣豪が集まってバトルロイヤルをやっているみたいな面白さがある。
 それでいて、こういう奴もいそうだ、というリアリティラインを守っている。ライトノベルと一般小説の良い所取りをしたような作品だ。

 本作は、節毎に視点人物が変わる三人称多重内視点が採用されている。三人称多重内視点により、キャラクターの印象が多面的になっている。
 ある人物のことを、ある人物は自分をちっとも可哀想だと思っていない優しい子だと思い、別の人物は考えることを楽しんでいるだけで誰の味方でもないと捉えている。色んな人物に語らせることで、キャラクターの色んな側面が炙りだされているのだ。

 現実世界ではキャラが立っているのは必ずしも良いことではない。
 本作でも、空気を読めない子がそのせいでいじめにあったり、気が弱い子が母親の言いなりになってしまったり、キャラが立っているせいで災厄が降りかかっている例が多数登場する。
 また、敵とみなした者を狂戦士のように叩きまくる奴なども登場し、現実にいたら絶対関わりあいになりたくない。

 だが、ライトノベルではキャラが立っているのは無条件で良いことだ。ライトノベルは面白さが最優先される文学であり、キャラが立っている方が面白いからだ。
 マイが「ケンちゃんみたいなの、人気者になれるところもあると思うんだけどなー」と言うのだが、人気者になれるところとはライトノベルのことだ。
 ライトノベルは個性を祝福する文学なのだ。