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何故いだてんの語りが不評なのか

(本稿は『いだてん~東京オリムピック噺~』の抽象的ネタバレを含みます。文中敬称略。)

 大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』(宮藤官九郎脚本)におけるビートたけしの語りが不評だ。一緒に観ていた母が「たけしが出てくるとしらけるから止めて欲しい」と言っていたが、同様の感想を持つ人は多いらしく、いくつか記事が上がっていた。

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 不評な理由の一つ目は、ビートたけしの語りが落語家らしくないことだ。役者もやっている落語家は大勢いるのに、なぜ落語家に頼まなかったのだろうか。
 第二の理由は構造が複雑すぎることだ。森山未來演じる若き日の志ん生と、ビートたけし演じる熟年の志ん生が交互に語りを担当しているのだが、第一話を見逃した人は、二人が同一人物だとは分からないだろう。老人や子供も見ているのだから、必要以上に複雑にしない方が良いのではないか。

 だが、最大の原因は落語がメタ的扱いに向いてないからではないか。

 落語をメタ的に扱った傑作にアニメ『昭和元禄落語心中』がある。石田彰山寺宏一という声優界を代表する実力派が本物の落語家ばりの見事な語りを披露しており、作画も申し分ない。だが、それであっても、作中の落語で声を上げて笑うことはなかった。
 作中の高座シーンは、落語そのものを聞かせるためにあるのではなく、ドラマ上の何かの象徴として登場する。それは『タイガー&ドラゴン』といった他の落語ドラマであっても同じだ。

 もし、ドラマ内の落語そのものが面白いのなら、現実に落語を見る時と同様、固定カメラの映像だけで視聴者は楽しめるはずだ。だが、アニメやドラマにおける高座シーンは、アングルを切り替えたり、観客の反応を入れたり、語りの内容を映像化したりしている。

 なぜ、ドラマ内のメタ的な落語にはアングルの切り替えが必要なのか。それは落語が本来没入して楽しむメディアだからだ。
 落語は文字だけで楽しむ小説に近い、情報量が少ないメディアだ。落語を楽しむには、落語家の語りと身振りから、状況を想像しなくてはならない。人が想像力を働かせるモードに入るには集中力が必要で、集中するには時間がかかる。
 そのため、落語家は話の本筋を語る前に枕を語って、徐々に観客を話の世界に引き込んでいく。
 さらに、笑いはちょっと場の空気が変わっただけで笑えなくなってしまうような繊細なものだ。観客に合わせて落語家が語りを調整することで、初めて笑いが成立するのだ。

 一方、ドラマは視聴者が視覚的に想像する余地がない刺激の強いメディアだ。そのため、ドラマ内に落語を入れ込むと、視聴者は頭が落語を聞くモードになっていない状況でいきなり落語を聞かされるので滑っているように感じ、違和感を覚えてしまうのではないだろうか。

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