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人生を超えるもの――半分、青い。感想2

(本稿は「半分、青い。」のネタバレを含みます。)

 『半分、青い。』ほど賛否が分かれた朝ドラも珍しい。絶賛する人がいる一方で、ツイッターに批判用の「半分白目」タグができる程、叩く人も多かった。
 はてブでも「半分、青い。」を痛烈に批判した、「半分、青い。」を直してみた。~私は北川悦吏子のドラマが好きだった。と高く評価した 「半分、青い。」のここが好きでしたが立て続けにホットエントリー入りした。
 何が視聴者の賛否を分けているのだろうか。


1.賛否を分けるもの
 本作を象徴する台詞が涼次の「納得いくものが撮れれば僕の人生を超える」だ。
 涼次が言う通り、現実の人生を超えるものが存在すると思うかによって本作の賛否が分かれているのではないか。

 フィクションは娯楽と芸術という二つの側面を持っている。
 娯楽は現実の人生を楽しくするためのものだ。受け手を楽しませることが最優先であり、現実のためにフィクションがあるという考えに基いて作られている。
 否定派のsleepingnana氏が提示したのは視聴者を気持よくするという目的に絞った修正案であり、人間のドロドロした醜い部分のような視聴者が見たくない部分は排除されている。氏の修正案は娯楽という点で良く出来ている。

sleepingnana.hatenablog.com

 一方、芸術は作品自体に人生を超えた価値があるものだ。何に人生を超えた価値があると考えるかは人それぞれだが、人間の本質とは何かといった普遍的なテーマに迫ることなどが挙げられる。
 インタビューを読むと本作は、片耳が聞こえないことや、創作に対する考え方、恋愛体験、お母さんへの思いなど、北川氏の私小説的な部分が色濃く出た作品であることが分かる。
 私小説的アプローチの利点は、隠している心の奥底まで描くことができる点で、人間の本質に迫る手段としては極めて有効だ。一方で自分が経験していないことに関しては上手く書けないという欠点もある。

 肯定派のkobeni氏が最も称賛していたのも北川氏が経験に基づいて描いた創作の光と影の部分だった。kobeni氏は創作関係の仕事をされているらしく、自分で創作をしたことがある人しか核心部分は理解できないのかもしれない。

kobeni.hatenablog.jp


 私も小説を書いているが何度も新人賞の壁に跳ね返されているので、ユーコや鈴芽が才能に限界を感じて漫画家の道を諦める展開はグサグサ心に突き刺さった。

 

 娯楽と芸術は対立するものではなく、両立しうる。だが、場合によっては対立する。
 基本的に、フィクションの主人公は現実の人間よりも高潔だ。物語のヒーローは仲間のために命がけで戦ったりするが、現実で仲間のために命をかけている人などめったにいない。
 娯楽の観点からは主人公に英雄的行動を取らせた方が視聴者が気持ちよく見れるが、私小説的に考えると絶対そんなことしないよ、というような場合、作者は娯楽を取るのか芸術を取るのか選択を迫られる。


2.現実からの批判と現実より優先すべきもの
 北川氏は最終週の展開についてインタビューで「たぶん炎上するんだろうなと、覚悟はできています。なぜそれを書いたかというと、自分としてはそれが必要だったから。」と答えている。これは視聴者の望むものを提供する娯楽よりも優先度が高いものがあるという考えの現れだ。

 本作で特に批判を浴びた台詞に鈴芽が涼次に言った「死んでくれ」がある。 
 この台詞に対し、井戸まさえ氏が、離婚相談を数多く受けている経験上、相手から離婚を切り出された時に言う台詞は「死んでくれ」ではなく「死んでやるっ」だと指摘していて感心したのだが、リアリティの観点から不自然な台詞をあえて言わせたということは、リアリティよりも優先すべきものを表現するためにあえて書いたと考えるのが自然だ。

gendai.ismedia.jp

 本作で人生を超えるものが存在すると主張する者は象徴的死の世界に生きている。秋風先生やボクテは子供がいないし、涼次も創作の世界に戻る際に子供と別れる。本作で子供が生まれることは人生の象徴である。
 「死んでくれ」は人生を超えるものが存在すると主張する者は、象徴的死の世界へ行くということを明示するための台詞なのだ。

 同様の批判を浴びたのが裕子の震災死だ。
 裕子が死んだのは、看護師の仕事の中に「人生を超えるもの」を見出したからだろう。惜しむらくは、北川氏はおそらく看護師の経験がないので、視聴者になるほど、と思わせるだけのディティールを書き込めなかったことだ。
 完全な芸術家であるボクテと違い、鈴芽と裕子は半分だけ芸術家としての才能を有している。テーマ的に、片方が生の世界へ向かうためには、もう片方は死の世界へ行く必要があったというのは感覚的には理解できる。

 裕子の死に関しては、震災で津波が来ると分かっていて逃げなかった人などいないという批判がなされている。リアリティの観点からは当然の批判だ。一方、作者は実際にどうだったかという現実よりも「現実を超えるもの」を優先して書いている訳だから、両者の意見は決して交わらない。

 現実よりも優先すべき価値があると言うのは、バッティングしたら現実を犠牲にするということだから、現実を再優先と考える人にとっては到底受け入れがたいし、現実以外に価値はないと考える人にとっては理解しがたい。


3.みんな自分のことを語っている
 前出の記事についたブコメを読むと、肯定派より否定派の方が多かった。現実の人生よりも価値のあるものが存在するという考えの人はマイノリティなのだ。

 多くの人は歳とともに現実重視に考えが変わっていく。sleepingnana氏が昔は北川作品を楽しんでいたが今は酷評しているのも氏の中で「人生を超えるもの」の価値が低下したからではないだろうか。私自身若いころは頑張って文学作品を読んでいたが、今は投資本ばかり読んでいるので、「人生を超えるもの」への感性が低下していくのは良く分かる。

 批判している人は人生を超えるものなんかない、人生を大切にしろ! と怒っており、賞賛している人はそうだよ。人生を超えるものは存在するんだよ。朝ドラで良くぞマイノリティの考えを表明してくれたよと喜んでいるのではないだろうか。


 本作への評論で最も感心したのは【ネタバレ感想】北川悦吏子脚本ドラマ 「半分、青い」とは何だったのか。 だ。

www.saiusaruzzz.com

 私が以前書いた「トリックスターヒロイン論」をより緻密に展開していて舌を巻いた。特に「「花野のためになされた」涼次のプロポーズを、鈴愛は「自分のために」断っているのだ。」という指摘には目から鱗が落ちた。

 うさる氏は「朝ドラのコンセプトや見ている人に中等半端に気を遣った結果、根底に不快なもの(だからこそ面白いもの)を秘めつつ、当たり障りのない物語という非常に残念な出来上がりになってしまった。」と批判しているが、言い方を変えれば北川氏は娯楽であり芸術でもある作品を目指したということでもある。

 最終回でキミカ先生は「生まれることも死ぬことも特別なことじゃない」「生まれることがめでたくて死ぬことが悲しいというのも乱暴な気さえする」と語っている。これは「現実の人生が重要だ」=生と「人生を超えるものがある」=死という二つの考えは等価だということだ。


 感想を色々読んで感じたのは、みな「半分、青い。」について語っているようで自分のことを語っているということだ。
 鈴芽は登場人物の隠された感情を暴いて回るトリックスターだったが、作中で暴くことに飽きたらず作品を飛び出して視聴者の感情をも暴いて回っているかのようだ。
 ヒロイン=正義となりがちな従来の朝ドラと違い、本作は正しい人生を提示せず、登場人物全員の人生を等価なものとして提示している。従って、何をくみ取ってくるのかは視聴者次第だ。
 欠点もある作品だが、非常に優れた写し鏡であることは間違いないだろう。

 

shinonomen.hatenablog.com