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他者に向かって叫ぶべき本当の事――万延元年のフットボール感想

(本稿は『万延元年のフットボール』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『万延元年のフットボール』はノーベル賞作家大江健三郎氏の代表作だ。だが、新作と戦前の文豪の間のエアポケットに入ってしまって、最近ではほとんど話題になることがない。確かに難解な箇所もあるのだが、ストーリーは抜群に面白く読み応えもあるので、もっと読まれてほしい。

 本作の特徴として、主人公にして語り手の蜜三郎がひたすら弱々しく情けないということが挙げられる。数年前に草食系男子という言葉が流行ったが、蜜三郎は草食系男子ならぬ植物系男子だ。カリスマリーダーの弟、鷹四が大活躍する中、蜜三郎は全編ほとんど蔵屋敷にこもって事態の行方を傍観している。今で言う引きこもりだ。また、イケメンでモテモテの弟に対し、蜜三郎はウジウジした性格で容姿も醜いのでまるでモテない。一応結婚してはいるのだが、妻まで弟の味方をし始める始末だ。
 本作は主人公が内向的、マジックリアリズムの影響を受けている等、村上春樹作品と共通点が多い。村上作品の主人公は内向的なのに何故かモテるが、蜜三郎はカリスマ非モテであり、こちらの方がリアリティがあって好感が持てる。


 本作の核心は蜜三郎の、おれは「生き残り続ける者らに向かって叫ぶべき「本当の事」をなお見きわめていない!」という気付きだ。この文は、人生において見きわめるべきことは「他者に向かって叫ぶべき」であり、かつ「本当の事」でなくてはならないと主張している。「他者に向かって叫ぶべき」「本当の事」とはどういう意味だろう。

 蜜三郎が気付きを得る前に、鷹四は「オレハ本当ノ事ヲイッタ」と記す。その前に鷹四が言ったことを良く読んでみると、本当の事とは心の奥底にある、本当の願い、欲求のことなのではないかと思い至った。具体的には「兄さん、俺を愛してくれよ」という欲求である。

 何故、「他者に向かって叫ぶべき」「本当の事」でないといけないのか。エロ漫画を例を上げて考えてみよう。

パターン1「私はエロ漫画が大好きだ」
 この告白は無意味だ。何故なら「本当の事」かも知れないが、他者に対する働きかけを含まないので、「他者に向かって叫ぶべき」ことではないからだ。言われた方は「お、おう」としか言いようがないであろう。

パターン2「私はエロ漫画が大好きだから、二次元ポルノの規制に反対だ。署名に協力してくれ。」
 この発言は、「他者に向かって叫ぶべき」「本当の事」の二条件を満たしている。従って意味のある発言だ。

パターン3「私は二次元ポルノの規制に反対だ」「何で? エロ漫画が好きなの?」「私はああいうものには興味が無いが、ここで表現規制に歯止めをかけないと自由な言論が失われてしまうのだ。」
 これは「本当の願い、欲求」(=本当の事)を含んでいないので、パターン2に比べると説得力が薄い。内なる欲求から出た言葉でないと、人の心は動かせないのだ。

 他者に働きかけているように見える言葉の中にも、他者に向かっていない言葉は存在する。
 トランプ大統領が自身に批判的なメディアに対し「フェイクニュースだ」と批判する言葉は他者に向かっていない。何故ならその言葉は批判メディアという他者ではなく、自らの支持者にアピールするために発せられているからだ。
 現代はヘイトスピーチのような「他者に向かって叫ぶべき」でない内向きの言葉が氾濫している。一方でそれと対峙すべきリベラル派の言葉も偽善的で「本当の事」でないとバッシングを受け、力を失っている。

 「他者に向かって叫ぶべき本当の事を見きわめろ」という主張は現代においてますます重要になっているのではないだろうか。

 

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)