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不条理な欠落――その女アレックス感想

(本稿は『その女アレックス』の抽象的ネタバレを含みます。)

 物語は欠落を回復する過程を描いたものだ。桃太郎のおじいさんとおばあさんには子供が欠落しており、シンデレラは地位と伴侶が欠落している。欠落は自分のミス、不運、敵による侵害など様々な要因によって起こるが、欠落の原因が不条理であるほど読者は物語にのめり込む。
 主人公が会社の金を使い込んで首になっても読者は自業自得だと思うだけだ。だが、身を粉にして尽くしてきた上司に裏切られ、罪を着せられて首になったら、読者は怒り、どうやって主人公がリベンジを果たすのか興味をもつだろう。

 不条理に何かが損なわれた時、読者は怒りと同時に、なぜそんなことが起きたのかという謎に対する興味も感じる。
 怒りは喜怒哀楽の中で最も強い感情だ。そして謎はミステリーの面白さの根幹となる要素だ。不条理な欠落は読者に怒りと謎への興味という二つの感情を同時に引き起こすことができ、読者を物語に引きずり込むのにすこぶる効果的なのだ。

 だが不条理な欠落には欠点もある。怒りによって読者が不快になる点だ。読者は「何故だ!」と怒っているわけだから、上手くフォローをしないと読後感が悪くなってしまう。

 「このミステリーがすごい!2015」や「週刊文春ミステリーベスト10」などのランキング1位を総なめにした『その女アレックス』(ピエール・ルメートル著、橘明美訳、文春文庫)を読んで、情報コントロールの巧みさに舌を巻いた。本作は三部構成なのだが、第一部と第二部で起きているのは不条理犯罪であるかのように描かれている。読者は犯人に対し憤り、ストーリーに引き込まれる。最近読んだ本で、これほど続きが気になり、次々ページをめくった本は他にない程だ。それでいて、本作はフォローもしっかりしている。話が進むと全くの不条理犯罪ではないことが明らかになるので、読後感がそれほど悪くならないのだ。

 本作のもう一つの工夫が細かい章割りがなされ(本文439ページが62章に分かれている)、アレックス視点と事件を追うカミーユ視点が交互に登場する点だ。ハードでダークなアレックス視点とユーモアのあるカミーユ視点を交互に読むことで、読者は細かく感情がアップダウンし、常に心が揺り動かされることになる。忙しない現代の読者のために最適化されたミステリーだ。

 

その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)