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酷い目に遭いたいという欲望――ぼくは明日、昨日のきみとデートする感想

(本稿は『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(七月隆文著、宝島社文庫)を読んで、非対称性に居心地の悪さを感じた。本作の恋愛は構造的困難さを抱えており、その負荷は男女が均等に負担するのが自然だ。だが、本作は男性視点で描かれており、中盤以降にどんでん返しを持ってくる都合上、女性側が過大に負担することになってしまっている。対等な男女というよりは主人と従者のような不均衡だ。これは、女性読者が反発するのでは? と思っていた所、本書は2015年「10~20代女性が読んだ文庫本」第1位なのだと言う。反発されるどころか、むしろ女性に支持されていたのだ。

 一般に、男性読者は男性主人公が、女性読者は女性主人公が良い目に遭う物語を好むものだと思われている。ハーレムものがその典型だ。だが、良く見ると、ハーレムものの主人公は意外と酷い目に遭っていることが多い。
 例えば、ハーレムラブコメの典型である『ラブひな』の主人公景太郎は周囲の女性達からやたら殴られたり迫害されたりしている。女性主人公の逆ハーレムものでもヒロインが女王様のように振る舞っている作品は稀で、男性陣から手荒に扱われていることが多い。
 ハーレムものに限らず、物語の主人公はたいてい酷い目に遭う。それは最後に大逆転してすっきりするための伏線だと思っていたが、それだけでなく、酷い目に遭いたいという読者の欲望に応えているのではないだろうか。
 私も、大半の人がマゾヒストだなどと主張するつもりはない。だが、少なくとも被害者の方が加害者よりも精神的に安定するのは確かだ。政治に目を向けても、左派は資本家によって虐げられた被害者、右派は移民によって虐げられた被害者という立場を取りたがっているではないか。

 本作最大の肝である、SF的仕掛けについても一言触れておこう。我々は昨日の自分と今日の自分は同一人物であると考えがちだ。だが、子供の頃の自分と現在の自分が同じ自分であるかと問われると、途端に自信がなくなる。両者の思考や思想は全く異なっているからだ。ならばどうして昨日の自分と今日の自分が同じであると言えるだろうか。
 本作を読むと昨日の自分と今日の自分は別人であり、人生は常に一期一会だということを気付かされる。それが本作がヒットした最大の理由ではないだろうか。

 

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)

ぼくは明日、昨日のきみとデートする (宝島社文庫)