(本稿は『砕け散るところを見せてあげる』のネタバレを含みます。)
『砕け散るところを見せてあげる』(竹宮ゆゆこ著、新潮文庫NEX)には二点不満があった。
一つ目は帯文で伊坂幸太郎氏が指摘されている「野心的な構造」だ。私は一読して意味が分からず、「あれ、死んだはずのお父さんが生きていたの? 」などと思い、再読しても分からず、ネットで鋭い人が説明してくれているのを読んでやっと理解できた。この野心的な構造は本当に必要なのか? ただ単に分かりにくくしているだけではないのか。
二つ目は主人公の清澄がヒーロー的行動にこだわる点だ。
物語後半、私は何度も心の中で「お前は今すぐ警察に行け! 」と叫びながら読んでいた。清澄は誰かに助けを求めるのではなく、自らを犠牲にしてもヒーローたらんとする。
本作では思い通りにならない悪の象徴としてUFOが語られ、ヒーローはUFOを撃ち落とす者と定義される。
確かに、本作のようにUFOがいるという特殊な状況下では主人公はヒーローになるのが最適解かも知れない。だが、現実には撃ち落せば問題が解決するような悪=UFOなんかいないだろう。作者が作った特殊な箱庭の中の話なんじゃないか。
だが、何度も読み返したら理解できた。作者はUFOが存在するという特殊な状況を普遍化するために野心的な構造を導入したのだ。
本作の構造上の核となっているのは、高校三年生の男子が部屋で変身ポーズを決めている所を母親に目撃され、笑われるという何ということもないシーンだ。そこにはUFOなんか存在しない。だが、そんな日常にだって、ヒーロー的行動と通底するようなキラキラしたものは確かに存在している。
作者はUFOがいるという特殊な状況下における愛を、UFOなどいない母子の何気ないシーンと野心的な構造を用いて接続することで普遍化した。これは普遍的な愛の物語なのだ。