(本稿は『くまみこ』の内容に触れています。)
『くまみこ』(吉元ますめ原作、松田清監督)はとらえどころのないアニメだ。一応、熊のナツと一緒に東北の山奥で育ったため世間知らずなヒロインまちが都会の事物に対して戸惑う様を描いた萌えアニメと言えるのかも知れないが、色々と軸が定まっていない。
同じように田舎暮らしをテーマにしたアニメである『のんのんびより』では、視聴者は「田舎の子供の暮らしを見てまったりと癒やされるぞ」という態度で見れば良い。一方、『くまみこ』は癒し系アニメだと思って見ると何だか微妙にエロい。だが、『聖剣使いの禁呪詠唱』などのいわゆる石鹸枠アニメのようにあからさまにエロくはない。作品としての位置づけが曖昧なのだ。
作品構造も曖昧だ。普通のストーリーアニメでは主人公に目的が存在している。一方、癒し系日常アニメでは主人公の目的が存在しない。目的を持った主人公が成長するのに対し、目的を持たない主人公は成長せず、終わりなき日常を生きている。
『くまみこ』のヒロインまちには都会の高校に進学するという目的が存在する。だが、それを阻む存在であるナツは断固として阻んでいるわけではなく、都会になじむための課題を課したりしていて、見方によってはまちが都会に行くのをサポートしているとも言える。そうこうする内に、何故かまちが「ファッションスーパーしもむら」を讃え始めたりしてもう何がなんだか分からない。
くまはぬいぐるみの定番であり、くまと離れられないということは大人になれないことの象徴である。まちとナツは対立しているようで実は共犯関係にあり、ぐずぐずと大人になることを先送りしているのである。
この煮え切らない態度はおたくのあり方そのものではないか。
最もおたくの本質を突いていると思ったのが、まちと同居する熊のナツが去勢されているという設定だ。
アニメが欧米に浸透しつつある現在でも、萌えという概念はほとんど受け入れられていない。それは欧米人から見ると、萌え=小児性愛であるように見えるからだ。おたくはその指摘に対し、違うんだ、とは言うものの、何がどう違うのか上手く説明できずにいた。
だが、ここにくまみこが上手い説明を提供してくれた。すなわち、小児性愛者が獣であるのに対し、萌えを愛するおたくは去勢された獣なのだ。こう考えると、おたくむけコンテンツの主人公がエロい体験はやたらとするのに、決して性交はしないことが説明できる。
『くまみこ』はあまりに良く出来たおたくの写し鏡であるが故に、見ていて複雑な気分になるのである。