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共作に向いていない二人の作家――イン・ザ・ヘブン感想

(本稿は『イン・ザ・ヘブン』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『イン・ザ・ヘブン』(新井素子著、新潮社)は『グリーン・レクイエム』などで有名な作者の三十三年ぶりの短篇集である。この中で新井氏は「無意識とのセッション」という創作手法を開発し、十一作中三、四作をこの手法によって書かれている。

 あとがきによると、まずは「何も考えずに、手がやってゆくのに従ってみようかなっていう感じ」で無意識に従って書き、後から意識によって収拾する手法とのことで、
 「無意識の暴走をある程度まで許して、しかるがのちに手綱をとり、それをお話として収拾可能な処までもってゆく」べく「最初の無意識暴走バージョンを直しつつ、伏線をちゃんとひく、脱線してしまった枝葉を刈り込む、お話としての体裁を整えるってやってゆく為」に二回以上書き直しているのだという。

 こうして出来上がった作品は、良く言えば自由闊達で小説の枠を広げているのだが、悪く言えば完成度が低くてまとまりがない。
 例えば、「ここを出たら」はエレベータに閉じ込められた他人同士がサバイブする話で面白く読んだ。だが、最後の実は語り手が○○だったというオチは蛇足ではないか。あとがきで作者は「編集の方に、「まさかこんな結末になるとは」って言われましたが、私もそう思いました。」と書いているので、このオチは無意識が考えたらしい。新井氏の無意識に余計なことをするなと言いたい。
 また、「あの懐かしい蝉の声は」は第六感について思考実験を行った興味深いSFだが、「無意識さん」が思いついた「……の……の……の。」が浮いている。話を思いついたきっかけが「……の……の……の。」だったとしても、最終的には無意識に義理立てせずに削ってしまった方が良かったのではないだろうか。

 新井氏が普通の手法で書かれた表題作などは、SFとしてきれいにまとまっている。どうも無意識が作品の完成度を損ねているのではないかと不満に思っていた私だが、最後の「テトラポッドは暇を持て余しています」を読んで引っくり返った。小説ではなく、無意識が現実化した様を描いた日記なのだが、無茶苦茶面白い。何だ、すごいじゃないか無意識。

 つまり、新井氏の無意識と意識はそれぞれ優れた作家だが、二人の作風が違いすぎるので共作向きではないのではないだろうか。「絵里」も前半の無意識主体で書いたと思しきサスペンスと後半の意識主体で書いただろうSFはそれぞれ単体では面白いのだが、違う作家の短編を二つくっつけたみたいな違和感が拭えない。新井氏は無意識暴走バージョンは一回では完成形にならないと書かれているが、小説に変さの限界などない。宮沢賢治が書いた意味不明の極地とも言うべき『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』だって一部の読者に受け入れられているではないか。
 新井氏にはぜひ一度、無意識さんの実験小説をそのまま世に問うてみて頂きたい。

 

イン・ザ・ヘブン (新潮文庫 あ)

イン・ザ・ヘブン (新潮文庫 あ)