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間に立つ主人公――無花果とムーン感想

(本稿は『無花果とムーン』の抽象的ネタバレを含みます。)

 

 『無花果とムーン』(桜庭一樹著、角川書店)は『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の頃の桜庭氏が完成度を高めて帰ってきたような少女小説だ。『私の男』以降桜庭作品から離れてしまったライトノベル読みにもぜひ読んで頂きたい。

 タイトルとなっている『無花果とムーン』とは場所と人を示している。物語の舞台となるのが無花果町で主人公の名前が月夜なのだ。だが、読み進むにつれ、この二語がさらなる意味を持っていることが明らかになる。

「聖書でアダムとイヴがさ、禁断の果実を食べた後で最初にしたことってなんだと思う?」
「無花果の葉っぱで股間を隠したんだってさ。」

「夫は、満月の夜に二人乗りの舟を出したよ。
 古来から、月の海を銀の舟で渡った生者は、死者のいる国にたどりつくと信じられてきたから。」

 つまり、無花果は「大事なものを隠すもの」であり、月は「生者と死者をつなぐもの」なのだ。本作は「生者と死者をつなぐもの」が「大事なものを隠すもの」を取り払う小説、すなわち越境者が秘密を暴くミステリーであるということがタイトルから導き出される。

 本作は確かに「アーモンドアレルギーの奈落(月夜の義理の兄)は何故アーモンドバーを食べて死んだのか」という謎をめぐるミステリーではある。だが、どちらかと言うと月夜の教養小説(成長小説)としての側面の方が強い。主人公が成長する教養小説に対し、ミステリーは探偵役たる主人公は成長しない。何故ならミステリーでは葛藤を抱えているのは探偵ではなく犯人であり、人は葛藤を抱えない限り成長しないからだ。本作は教養小説でありかつミステリーであるという背反をアクロバットな手法で解消し、両立させている。

 本作を読んで気付いたのだが、教養小説とミステリーの主人公は片方は成長する存在であり、片方は成長しない存在であるため、全く違うようでいて、実は似てもいる。それは両方とも間に立つ者であるということだ。教養小説の主人公は子供と大人の間に立っており、ミステリーの主人公である探偵は社会的存在と反社会的存在の間に立っている。
 物語は基本的に教養小説かミステリーだから、あらゆる物語の主人公は間に立つ者であると言えるのではないだろうか。

 

無花果とムーン (角川文庫)

無花果とムーン (角川文庫)