東雲製作所

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すっきりせずにもやもやと残るもの――色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年感想

(本稿は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の内容に触れています。)

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹著、文藝春秋)は刑事物の構造を持っている。本作を一言で言い表すなら、「仲良し五人組から突然ハブられた謎を解明するため、刑事役のつくるが自分をハブにした奴らを訪ねて聞きこみをする小説」である。また、自分を追放した四天王と順に対決していくという点では王道ファンタジー小説のようでもある。そのため中盤は村上作品随一のエンターテイメント性に溢れていて、とても面白い。

 刑事物だと犯人が逮捕されるとまもなく話が終わる。例えばTVドラマの相棒では、犯人逮捕の後は特命係の部屋か小料理屋で右京と相棒が短い会話を交わして終わりになるというパターンがある。これは事件によって脅かされた日常が回復されたことを示し、視聴者を安心させることを目的としているので、短くなくてはいけない。新たな事件を起こしてはいけないので、長々やると退屈なシーンになってしまうからだ。同様の理由でファンタジーの場合も敵を倒し目的を達成したら、さっさと終わらせるのが鉄則である。
 だが、本作はエンターテイメントの終わり方を踏襲しなかった。エンターテイメントと純文学を接ぎ木したのだ。そのため、終わらせ方に非常に苦労されているという印象を受けた。もし私が作者だったら、つくるが帰国してすぐに終わらせたと思う。
 村上氏がすっきりとした終わらせ方をしなかったのは、本作がまさに「人はすっきりしないものを抱えながら生きていくしかない」という内容だからだろう。すっきりせずに読者の心にもやもやと残るいわく言いがたいものこそ純文学の本質かも知れない。