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遠くまで届くことば――ぼくらの民主主義なんだぜ感想

 朝日新聞には、月一回、そこだけ明らかに周囲の記事より値打ちの高いページが出現する。それが高橋源一郎氏が担当されている論壇時評だ。その文章は分かりやすいのに深く、日本語における散文の最高峰と言っても過言ではない。
 その4年分の連載が本になった。『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)だ。すぐに買い求め、頭から読み始めたのだが、どうも物足りない。優れた論壇時評だとは思うが、日本語における最高の散文と言う程ではない。おかしいな、と読み進めるにつれ、どんどん文章に凄みが増してきて、後半になると私が知っているいつものすごい論壇時評になった。つまり、本書を書く内に、高橋源一郎氏の文章が長足の進歩を遂げたのだ。還暦過ぎのもともとすごい作家が、さらにめきめき文章を深化させるなんて並大抵のことではない。

 高橋氏の文章の変化については、ご自身があとがきで書かれている。


 そんな遠い未来の目から、ぼく自身を見た。ぼくは、ある特定の時代に生きて、その時代の考えやことばに制約されている。千年先から見たぼくは、滑稽だろう。けれども、その制約の中で、精一杯のことをやってみたい。そんな風に思った。未来の読者から、「あなたが生きていたその世界ではなにがあったのですか?」と訊ねられたら、「こんなことがあったんだよ」と答えたいと思った。遥か遠くにまで届くことばを作れたらいいなと思った。小説は、そのために書いていたんだ。

 すぐに、ぼくは社会や政治について語ることばを、実は誰も持っていないのではないだろうか、と思うようになった。そして、社会や政治のことを書くためのことばを探しながら、ぼくは書いていった。けれど、そのことばなら、知っているような気がした。小説のことば、文学のことばは、こんなとき、こんな場合にこそ、その力をもっと発揮できるように思えた。

 確かに、竹取物語源氏物語といった文学のことばは、千年以上の時を超えて、現代まで届いている。一方、御堂関白記などの社会や政治のことばは、現代では歴史学者以外にはほとんど読まれていない。何故小説のことば、文学のことばは遥か遠くまで届くのだろうか。

 先ほど、私は、高橋氏の文章が途中から進歩を遂げたと書いた。氏の文章が深くなるのと軌を一にして、変化したことがある。私的な体験に根ざした記述が増えてきたのだ。本書の中で私が最も唸った箇所を引用しよう。


 ある若者が、デモに行くという友人と、その後で映画を見ようと約束した。その若者が、友人が交じったデモ隊の列と並んで歩道を歩いていた時、突然、私服警官に逮捕された。理由は公務執行妨害だったが、若者にはまったく覚えがなかった。後に若者は検察官から「きみが威圧的態度をとり、警官は恐怖を感じたからだ」といわれた。そういえば、私服警官らしい人間と目があったことは思い出したが、それが公務執行妨害にあたるとは夢にも思わなかった。
 留置場に入った若者は、そこで、1年近く裁判も始まらずただ留め置かれているという窃盗犯に出会った。貧困から何度も窃盗を繰り返した男は、1件ずつゆっくり起訴されていた。警察・検察の裁量によって、裁判が始まる前に、実質的には刑罰の執行が行われていたのだ。
「それって、人権侵害じゃないの」と若者がいうと「わからない。法律なんか読んだことがない」と男はいった。若者と男の話を聞きとがめた看守が、房の外から、バケツで2人に水をかけた。
「うるさい黙れ、犯罪者には人権なんかないんだ」
 極寒の房内は室温が氷点下にまで下がっていた。濡れた体を震わせながら、若者は、犯罪者の人権が軽んじられる国では、人権そのものが軽んじられるだろうと考えていた。それは、本や理論で学んだ考えではなく、経験が彼に教えたものだった。その若者が半世紀近くたって、いまこの論壇時評を書いている。


 何故、高橋氏の文章は、私的な体験を記すことによって深化したのだろうか。それは、自分のことは自分しか書かないからではないだろうか。

 社会や政治のことなど、多くの耳目にさらされている事柄は、多くの人によって語られる。現代に生きる私達は、他者のことばによって縛られている。だが、自分の体験は基本的には他者によっては語られないから、制約に囚われず、虚心坦懐に語ることができる。その時代の考えに立脚したことばではなく、人間という存在そのものに立脚したことばを紡ぐことができるのだ。

 同じように、作者だけが知っていることについて語ることばが存在する。それは小説のことばだ。小説世界は作者の頭の中にしか存在しないからだ。高橋氏が「小説のことば、文学のことばは、こんなとき、こんな場合にこそ、その力をもっと発揮できるように思えた。」と書かれているのは、小説や文学のことばが自分だけのことばだからではないだろうか。


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