(本稿は『シン・ゴジラ』のネタバレを含みます。文中敬称略。)
『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、樋口真嗣監督)を見終わった時、私の頭の中はこのような状態だった。
無人在来線爆弾 70%
石原さとみの怪演 20%
内閣総辞職ビーム 5%
その他 5%
それまでは頭の中に色んな感想が渦巻いていたのに、最後に登場した無人在来線爆弾に全部持っていかれた。
なぜ無人在来線爆弾はそれほどインパクトが大きかったのだろうか。
第一に、無人在来線爆弾という言葉自体がパワーワードであることが上げられる。在来線という日常的で全然強そうじゃない言葉と爆弾という非日常の劇的な言葉をくっつけたことにより二物衝突が起こり、強く印象に残る。無人新幹線爆弾より在来線爆弾の方が話題になったのは、在来線の方が爆弾とのギャップが大きいからだろう。
第二に、小学生みたいな発想であることが上げられる。これまでの政治機構や作戦の描写はリアリズムに基いているのに対し、無人在来線爆弾だけ児童向けアニメのようなリアリティだ。映像もいかにもミニチュアで撮ったと分かるもので、これまで積み上げてきたリアリティが一気に崩壊した。映画全体のバランスを考えるなら、無人在来線爆弾のアイデアはカットすべきだ。無人在来線爆弾が無くてもストーリー上何の支障もないのだから。
だが、無人在来線爆弾は私の心に深く刻み込まれた。初めて見てから一年以上が経ち、他のシーンの多くは忘れてしまっても、無人在来線爆弾のことは決して忘れることはない。映画の価値とは全体のバランスではなく、印象深い断片にあるのではないだろうか。そういう意味では、無人在来線爆弾は『シン・ゴジラ』で最も優れた断片だと言える。
日本は全体の調和を重んじがちな社会だ。無人在来線爆弾や石原さとみの怪演のように全体の調和を乱す変なものを切り捨てず、生かしていくのは、これからの日本社会において必要なことだ。そして、それこそが『シン・ゴジラ』のテーマでもあるのだ。