東雲製作所

東雲長閑(しののめのどか)のよろず評論サイトです。

恥辱に塗れた話

 はしご定期券をご存知だろうか。9月15日から10月23日まで吉野家はなまるうどんでそれぞれ80円引きと天ぷら一品無料になるカードで、300円で販売されている。天ぷらが100円としても2回ずつ来店すれば元が取れる計算だ。
 私は販売開始間もなく吉野家で購入し、9月15日を待っていた。ところが、9月15日頃から出張が入ってしまい、なかなか使えずにいた。ようやく出張から戻ってきたのは9月の終わり頃だ。

 私は早速カードを使おうと、丸亀製麺に行き、ぶっかけうどんの並を注文。いつもなら玉子のトッピングで済ます所を、ここぞとばかり二番目に高いかしわ天を取ってレジに向かい、「これ、使えますか? 」とカードを提示した所、店員に「それははなまるうどんで使えるカードですね。」と告げられた。

 ぐわあああああああ! 穴があったら入りたいとはこのことだ!

 私は430円を払い、ネギと水を取ると逃げるように一番奥の席に向かった。すっかりはなまるうどん丸亀製麺がごっちゃになっていた。はなまるうどんは駅から相当歩いた所にしかないので、吉野家はなまるうどんだったらそもそもこんなカードは買わなかった。私は絶叫しながら頭を壁に打ち付け、血まみれになりたい気分になったが、そんなことをしたら更にみっともない上に騒動になるので堪え、軽く頭を壁にぶつけるに止めた。たが、そんな程度では内罰感情はまるで満たされず、内面の大いなる恥辱と外面の平静さの著しい不均衡に腸が煮えくり返る思いだった。

 そこで思ったのが、侍が切腹するなどという異常なことを始めたのは、外面の状態を内面の恥辱的状態に近づけることで内罰感情を満たすためだったのではないかということだ。もちろん、嫌々腹を切った侍も多いのだろうが、自ら腹を切った侍の中には、このような恥辱を味わったからには自らを罰しなくては気が済まないと思って腹をかっさばいた者もいたのではないか。

 幸い、私は侍ではないので命を永らえることができた。恥辱を埋め合わせるため、アホみたいに吉野家の牛丼を食いまくってやる所存だ。

 

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乗り物天国ルスツリゾート

  少し前に北海道の留寿都村に行った。留寿都村は札幌から南西に車で一時間半くらいの場所にあり、リゾート地として有名である。冬はスキー、夏はゴルフやテニスができ、大きなホテルや遊園地が建っている。
 そんな高級リゾートで私が何をしていたかと言うと、森で虻に追い回されていた。少しでもリゾートのおこぼれに預かろうと、目を皿のようにしてルスツリゾートの敷地内を観察していた所、あることを発見した。ルスツリゾートはやたら乗り物が充実しているのだ。

 まず、ホテル間を無人運航のモノレールが結んでいる。

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  リゾートの敷地内にはグラスゴートレインを始め、三種の鉄道が運行されている。

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  スキー場なので冬場は当然ゴンドラやリフトに乗ることができる。
 遊園地にはジェットコースターやフリーフォールなどの乗り物があるし、ゴーカートや馬、熱気球などにも乗ることができるのだ。

  しかしながら、これらの乗り物に乗ることができるのは、ルスツリゾートのチケットを買った者のみ。一番安い、17時以降入場できるナイター券でも2500円する。モノレールに乗るだけでも2500円も取られるのだ。

 グーグルマップから概算したモノレールの路線距離は550m。グラスゴートレインが700mである。他の鉄道は距離が短く、遊園地の乗り物は乗る場所と降りる場所が同じだろうから路線距離は0mとすると、ルスツリゾートの鉄道の営業キロあたり運賃は2000円となる。

 「日本国内で初乗り料金の高い鉄道線!」という記事によると、初乗り運賃が日本一高いのは立山黒部アルペンルート関電トンネルトロリーバスの1540円で、路線距離6.1kmとのことだ。ルスツリゾートの鉄道は運賃はより高く距離はより短い。
 遊園地に隣接するモノレールという共通点を持ち、比較対象として適切なディズニーリゾートラインは路線距離5.0kmで260円なので、乗り物だけ乗りたい人にとってルスツリゾートの鉄道は、ディズニーリゾートラインの10倍、距離当たりでは38倍も高いことになる。

 もちろん、ルスツリゾートのチケットは乗り物以外のアトラクションがメインなことは分かっている。ディズニーリゾートのアフター6パスポートは4200円なので、遊園地としての料金はルスツリゾートの方が安い。だが、この料金体系では、遊園地などどうでも良い鉄道ファンを取り込めないと言いたいのだ。

 日本のモノレール - Wikipediaを見てもルスツリゾートのモノレールは載っていない。ルスツリゾートのウェブページにも路線距離や形式といった基本的な情報が書かれていない。鉄道ファン向けにアピールしていないのではないか。

 ルスツリゾートは500円くらいでモノレールと三種の鉄道に乗れるチケットを売り出せば、札幌に来た鉄道マニアが足を延ばして乗りに来るのではあるまいか。

 

rusutsu.co.jp

何故けものフレンズは人気なのにリベラルは叩かれるのか

 テレビ東京系で『けものフレンズ』(たつき監督)が再放送された。私も冒頭だけ見てから出社し、帰ってきてから録画を見て癒やされていた。ほんと、幸せな気分になるアニメだよね。

 けものフレンズのメッセージはオープニングテーマの「けものはいてものけものはいない」「姿かたちも十人十色 だから魅かれ合うの」というフレーズに象徴されている。各エピソードでは「バスを川向うに渡せない」「山頂のカフェに客が来ない」「能力が偏っているため住処を完成させられない」といった難題が登場するが、異なった個性のフレンズ達が協力して解決に導く。フレンズ達は違いを理由に疎外されることはなく、むしろ違いがあることが問題解決上有益であることが繰り返し示される。違いを尊重しようというのはリベラリズムの中心命題。ジャパリパークはリベラルにとっての理想郷なのだ。

 リベラルオタクの私にとっては困惑するのだが、インターネット上ではしばしばリベラルはオタクの敵だという主張がなされる。だが、けものフレンズはオタクの敵だなどという奴はいない。むしろ大人気だ。リベラルは偽善的だと批判されるが、けものフレンズが偽善的だと批判する人は見たことがない。中心命題は同じなのに、何故こんな違いが生じているのだろうか。原因として二つの違いが挙げられる。

 

違い1 フレンズは「君をもっと知りたいな」と思っている。リベラルは他者を理解しようという意思が薄い。
 「ようこそジャパリパーク」の歌詞で重要なのが、「君をもっと知りたいな」と言っている点だ。同質的な集団なら、放っておいてもトラブルは少ないが、十人十色な集団では、相互理解に努めないとすぐトラブルになってしまう。サーバルちゃんを筆頭に、フレンズ達は積極的に相手の美点を発見し、「すごいねー」と称えることで相互理解に努めている。

 一方、リベラリストは自分たちとは異なっている対立陣営を理解しようとする意思が薄い。インターネットの書き込みを見ると、リベラリスト保守主義者を「すごいねー」と褒め称えていることは稀で、たいていは舌鋒鋭く批判している。また、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン氏が敗北した原因も、クリントン氏達がラストベルトの白人労働者達を理解しようとする意志が薄かったため、労働者達が疎外感を募らせてしまったからだと言われている。
 もちろん、それはお互い様ではあるのだが、違いを認め合うことを旗印とするリベラル陣営こそ、率先して保守主義者を理解しようとするべきだ。私自身、他人に対する興味が薄いので、書いていて自分で耳が痛い。

 

違い2 けものフレンズの世界では敵が明確。現実は敵があいまい。
 理想郷のようなジャパリパークにも敵は存在している。セルリアンだ。
 普段はマイペースなフレンズ達も、セルリアンに対しては一致団結して戦った。ジャパリパークでは敵が明確なのだ。セルリアンは無機的存在で誰も感情移入して見ていないから問題が顕在化していないが、セルリアンから見れば全てのフレンズから敵認定されているわけで、相当辛い状況だ。フレンズにとってはユートピアでもセルリアンから見ればデストピアなのだ。

 多様性を認めない存在を野放しにしていた結果がホロコースト。多様性を尊重すると言っても、多様性を害する敵とは戦わねばならない。問題はどこまでが「多様性を害する敵」なのかだ?
 ナチスのように深刻な被害をもたらすものから、悪意のない文化の盗用(欧米人が和服を着て写真を撮るといったこと)のように実害が少ないものまで、リベラルが指摘する問題には濃淡がある。どこまでが許され、どこからは許されないかは人によって違う。その違いをめぐって争いになる。
 だが、敵があいまいなのはむしろ良いことなのだ。
 全体主義国家は違いを認めなかったから異論によるブレーキが働かずに暴走してしまった。何が敵なのか一致できないのはスッキリしないが、敵だと思うものが人それぞれ違うことが社会の安全弁になっている。そのためには、スッキリしないことを受けれいなくてはならないのだ。

 

 

自らの人生を選び取っているか?――おんな城主直虎第33回 嫌われ政次の一生感想

 (本稿は「おんな城主直虎第33回 嫌われ政次の一生」のあからさまなネタバレを含みます。)

 おんな城主直虎第33回で直虎が政次を自ら刺し殺したのには驚愕した。実家に帰省して家族で見ていたのだが、終わるまで誰一人口を開くことができなかった。
 直虎の政次殺しには重層的な意味が込められている。それを5つの観点から読み解きたい。

1キリスト
 罪を背負って磔刑になるということでまず思いつくのはキリストだ。キリストは人類を救うために犠牲になるが、政次は井伊家を守るために犠牲になる。神の元では皆平等な西洋社会と家という中間共同体に尽くす日本社会の違いが現れているとも言える。
 政次が死によって購った罪とは何なのか。直接的には近藤の罪の犠牲になった訳だが、より大きな意味があるように思う。近藤は政次に「お主はとうにわしを騙したことなど忘れておろうのう」と指摘し、政次は実際忘れている。また奪い合うのは「世の習いじゃ」と言う。そう考えると政次が購ったのは人が誰しも知らず知らずのうちに犯してしまう原罪のようなものなのではないだろうか。

2親殺し
 直虎と政次の関係は何だろうか。恋人ではないし、普通の親友でもない。政次は直虎をずっと守ってきた。そう考えると、二人の関係は友であると同時に兄妹であり、親子であった。
 政次の庇護を受けている限り、直虎は領主として独り立ちすることができない。直虎は「守ってくれなどと頼んだことは一度もない」と苛立っていた。直虎は親殺しをすることで、自らが一人前の領主であることを示したのだ。

3師匠超え
 井伊家を守るため、時に非情な決断をし、直虎を導いてきた南渓和尚。だが、今回南渓和尚は「政次が死ねばあれは死んでしまうからなあ。翼が一つでは鳥は飛べぬ」と二人を逃がす策を提示する。だが、直虎は政次を刺し殺して政次なしでも飛べることを示した。師匠の予想を超えたのだ。

4承認
 政次は「忌み嫌われ井伊の仇となる。おそらく私はこのために生まれてきた」と語る。そして「わっかんねえなあ」と苛立つ龍雲丸に「分からずとも良い」と答える。
 政次は誰からも理解されなくても良いと思っていたのか。そんなことはあるまい。政次は皆に理解されなくても直虎は分かってくれるのではないかと期待していたから碁石を託した。それに対し直虎は槍で刺し殺すことで分かったという回答を返した。だから政次は演技の嘲りの笑みを浮かべる前に、一瞬だけ本当の笑みを浮かべたのだ。
 ちなみに、視聴者が直虎の政次殺しに軒並み驚愕したということは、作中のほとんどの登場人物だけでなく、ほとんどの視聴者も政次を真に理解できていなかったということを表している。メタ的にすら誰も理解できないのに直虎だけは理解できた。二人の特別な関係が際立つ巧みな筋書きだ。

個人主義
 『おんな城主直虎』は現代的視点から戦国時代を再解釈したドラマだ。中でも龍雲丸は極めて現代的価値観を持っており、侍達の戦国的価値観を問い直す存在だ。
 何が本懐だと怒る直虎に、龍雲丸はこう言い聞かせる。
「小野の家に生まれたことで振り回されたかも知れねえ。辛い目にあったかも知れねえ。けどそんなもん、その気になりゃ放り出すことだってできた。そうしなかったのはあの人がそれを選んだからだ。あんたを守ることを選んだのはあの人だ。だから本懐だって言うんでさあ」
 戦国時代のような個人の自由が極めて制限されていた時代でも、直虎や政次は自らの人生を自分で選び取った。それに比して、何でもできるはずの現代で、あなたは本当に自らの人生を自分で選び取っているのか? 作者はそう問いかけているのではないだろうか。


 

 

大抵のことはアブよりはまし

 北海道出張では何日か森のなかで作業をした。北海道の森で最も恐ろしいのは熊である。熊よけ鈴にスピーカー、爆竹など万全の装備をして森に入ったが、幸い遭遇することはなかった。だが最もうざい奴に追い回された。アブである。
 アブは体長2~3センチ。ブオオオオオオというけたたましい羽音を響かせて人に近づいてきては執念深く付きまとってくる。アブが飛んでいる隙に素早く移動して撒いてやったと思っても、何故かじきに追いすがって来る。温度なのか嗅覚なのか知らないが、とにかく恐るべきしつこさである。私は長袖長ズボン長靴軍手に防虫ネットというフル装備で固めているので、まとわりついてきても全くの無駄。私は不快でアブは疲れるだけというlose-lose関係にも関わらず、それを理解できない奴らは服や防虫ネットの上を歩き回っては飛ぶを繰り返している。

 森の中に人が入ってくることなど稀で、他の野生動物の姿も見なかった。にも関わらずあんな猛烈に羽を震わせてエネルギーを消費していたら、すぐエネルギー切れで死んでしまうのではないか。そう思っていたが、後日ラジオで生物学者の本川達雄氏の解説を聞いて得心した。何でも、昆虫の羽ばたきは鐘のような共鳴の原理を利用していて、最初に一回羽ばたくだけでしばらく羽ばたき続けることができるのだという。何という効率的なうざさだ!

 中でも大変だったのが最終日だ。荷物が増えるのが嫌で、防虫ネットを置いてきたため、頭部をむき出しの状態で森に入った所をアブに襲われたのだ。奴は払っても払っても追いすがってくる。あまりに羽ばたきが煩いので、もうとまっていてくれた方がましかと、とまったのを放置していたら、頭を刺された。一度刺すと、今までのように軽く払ったくらいでは飛び立たない。直接アブを押すような感じでようやく引き剥がすことができた。感染症の恐れもあるし最悪である。

 今まで私はゴキブリを最悪な虫だと思っていたが、奴らは人に遭遇すると逃げていく。蜂は恐ろしいが、こちらから攻撃しなければ刺してこない。だが、アブは人間を刺すべく、向こうから近づいてくるのだ。
 何か悩みがある人は一度森に入ってアブに付きまとわれてみると良い。大抵のことはアブよりはましだと思えることだろう。

 

 

数年ぶりに運転した

 北海道に出張に行き、数年ぶりに自動車の運転をした。前回、田舎道で試しに運転した時は、左の人を避けようとして道のど真ん中に停車してしまったので、それ以来運転しないようにしていたのだ。
 北海道と言えば私が学生時代自爆廃車事故を起こした思い出の地。しかも彼の地のドライバーは制限速度オーバーでびゅんびゅん飛ばすのだと聞く。不安しかないが、社命なのだからしょうがない。事故に備え、出張終了後しばらくしたら「東雲長閑は事故死したようなので、遺作を読んでくれ」という記事がアップされるよう予約投稿をしてから出発した。(そして解除をミスって公開されてしまった。)

 新千歳空港でレンタカーを借り出発しようとしたが、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏んでも動き出さない。十分くらい悪戦苦闘した挙句、機器がONになっているだけで、エンジンがかかっていないことが判明した。
 出発し、しばらく走ったら信号が黄色になったので慌ててブレーキを踏んだら助手席のかばんが前に落ち、車に「急ブレーキを感知しました」と怒られた。何というハイテク。この車は他にも速度超過や端への寄り過ぎも感知して教えてくれるのだ。道中、何度もキンコンキンコンと寄り過ぎ注意の警告音が鳴り、慌ててハンドルを切った。皆さんが遺稿ではなくこの変な文章を読んでいるのはハイテクのおかげである。

 さらに感心したのがカーナビの進歩だ。700m前と300m前にこの先左折だと予告した後、曲がるずばりの所で「この信号を左です」と教えてくれるのだ。昔のカーナビでは、画面を見ながらこの信号かな、それとも次の信号かな、と迷っている内に前の車に追突していたものだが、このカーナビなら画面を見なくても大丈夫なのだ。画面に目を走らせるだけで車が横にずれていく私にはぴったりの機能だ。

 車は森のなかの一本道に入った。制限速度で走る私の後ろに車が連なる。何とか道幅が広い所で車を左に寄せて先に行ってもらおうとするが、これが難しい。対向車が来ていないタイミングを見計らってウインカーを出し、後方の車と意思疎通を図った上で滑らかに減速しなくてはならないのだ。そんな高等テクニックができるくらいなら、周りと同じ速度で走れるっちゅうねん。そんな訳で、後続車を先に行かせることもままならず、後ろの車への気疲れからぐったりしてしまった。渋滞を引き起こしても平然とノロノロ運転を続けているらしいガンバ大阪の遠藤選手は大したものだ。

 道中、最も恐ろしかったのがトンネルだ。対向車が来る時は左、ガードレールが迫っている時は右に避ければ安心だ。だが、トンネルではどちらにも逃げることができない。サイドミラーを見ると車が横にずれるのでどちらかに寄っていないか確認できない。ただただ心を無にして通り過ぎた。
 普通の車の車幅は道幅に大して余裕がなさすぎである。縦型ツーシーターの車を売り出したら、私のような運転が下手な人に需要があるのではないだろうか。

 一週間運転していたお陰で、ものすごく運転が下手なドライバーから運転が下手なドライバーへとレベルアップした。もう交通量が多い道や人通りが多い道、狭い道、高速道路以外ならどんな道でも大丈夫だ。

 帰ってきてから一つ変化があった。道を歩いていて近くを車が通ると、自分が運転している感覚が蘇るようになったのだ。車が停止するのを見ると、ブレーキを踏む感覚が浮かんでくるし、曲がるのを見るとハンドルを切る感覚が蘇ってくる。これまでは、車を見ても全くの他者、異物であるとしか感じなかったのだが、共感を持って感じるようになったのだ。
 だが、数日経つと、その感覚は失われ、特に何も感じなくなった。定期的に新しい経験をすると、感覚がリフレッシュされ、発想上良い影響があるのではないだろうか。

 

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ナプキン一枚分だけ

  七夕の夜、電撃小説大賞から一次選考落選のメールが届いた。会心の出来で、最終選考までは行くんじゃないかと思っていたので、放心状態になってしまった。
 こういう時、「慰めて」と言える相手がいないのは辛いことだ。

 美味しいものを食べようと、後楽園のカレー屋に行く。L字型のカウンターに八席程が並んでいる。客は誰もいなかった。
 1.5倍増量中のカツカレーの食券を購入し、カウンターに差し出す。皿によそられたご飯があまりに多いので、減らしてと言おうとしたが、減らしてと言うと0.8倍くらいにされちゃうかな、などと考えている内にカツが皿に載ってしまい、山盛りのカレーと対峙することになった。
 スプーンで切れるカツとカレーの相性が抜群である。だがいかんせん量が多い。1/3くらい食べた段階で既に結構お腹がいっぱいになってきた。

 カウンターの壁際で、一センチ程の蛾がよたよたと飛んでいる。動きが緩慢なため、容易に殺せそうだ。だが私は蛾の生死に関わる気になれず、カレー皿に寄って来る度に手で追い払っていた。
 私の後に続々と客が入り、店内はほぼ満席になった。右隣に座った若いサラリーマンが蛾を気にしている。ナプキンを手にとって、蛾の捕獲を試みたが、蛾は私の皿の下に逃げ込んだ。サラリーマンは「済みません」と言いながら私の皿の下に手を伸ばす。目の前に逃れてきた蛾を、私はとっさに右手で叩き潰していた。
 サラリーマンが私にナプキンを差し出す。私はそれを受け取って、蛾の死骸を包んだ。それから私はカレーを食べきって店を出た。

 私は今後、あのサラリーマンに会うことはないだろう。まじまじと見たわけではないので、どんな顔かも覚えていない。だが、彼はあの日、ナプキン一枚分だけ私の心を軽くしてくれたのだ。