東雲製作所

東雲長閑(しののめのどか)のよろず評論サイトです。

クリーム玄米ブラン全種類レビュー

 クリーム玄米ブランを昼食によく食べている。せっかくなので現在発売されている全種類のレビューを書いてみた。

 

 ブルーベリー
オーソドックスなブルーベリー味。普通においしい。

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン ブルーベリー 72g×6袋

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン ブルーベリー 72g×6袋

 

 

カカオ
チョコレートの味。サンドしている生地もチョコ味なのでチョコ味が濃厚。

クリーム玄米ブラン カカオ 72g(2枚×2袋)×6個

クリーム玄米ブラン カカオ 72g(2枚×2袋)×6個

 

 

クリームチーズ
クリームチーズのほのかな甘みがある。甘くておやつっぽい他のに比べ、食事っぽい。

クリーム玄米ブラン クリームチーズ 72g(2枚×2袋)×6個

クリーム玄米ブラン クリームチーズ 72g(2枚×2袋)×6個

 

 

宇治抹茶
普通の抹茶味。特に書くことがない。

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン宇治抹茶 72g×6袋

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン宇治抹茶 72g×6袋

 

 

メープルナッツ&グラノーラ
はちみつの甘みが優しい。

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン メープルナッツ&グラノーラ 72g(2枚×2袋)×6袋

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン メープルナッツ&グラノーラ 72g(2枚×2袋)×6袋

 

 

黒ごま黒大豆&グラノーラ
黒大豆を食べたことがないので、黒大豆味かどうか良く分からない。知っているものの中ではピーナッツバタークッキーみたいな味。昔のごま味より美味しくなっている。 

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン 黒ごま黒大豆&グラノーラ 72g(2枚×2袋)×6袋

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン 黒ごま黒大豆&グラノーラ 72g(2枚×2袋)×6袋

 

 

5種のフルーツ&グラノーラ
色んなドライフルーツの味がする。個人的には一番美味しい。生地にもフルーツが入っていて味が芳醇。 

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン 5種のフルーツ&グラノーラ 72g(2枚×2袋)×6袋

アサヒグループ食品 クリーム玄米ブラン 5種のフルーツ&グラノーラ 72g(2枚×2袋)×6袋

 

 

グラノーラ&ベリーベリー
ベリーベリー=ストロベリー&ラズベリーだが、ほぼイチゴ味。さわやかな酸味がある。

 

期間限定
スイートポテト
バターたっぷりのスイートポテト味。ちゃんとさつま芋を焼いたような味がするのはすごい。

 

ココナッツアーモンド
ココナッツアーモンドの味――ではない。ココナッツ成分は微かでピーナッツバターみたいな味がする。やっと表示の味と違うことを書くことができた。

 

 

 全種類レビューをやってみた結果、クリーム玄米ブランは書いてある通りの味がすること、私は味覚が発達していないため食べ物のレビューに向いていないことが判明した。
 しかしながら、レビューを書くため良く味わって食べた所、不味いと思っていたものが意外と美味しかったりといった発見があった。味覚に関する描写力を鍛えるため、これからも食べ物レビューを書いていこうと思う。

 

アイデア大全のアイデア創出法を整理する

 読書猿氏と言えば、知的で役に立つブログ、「読書猿Classic: between / beyond readers」で有名である。物語作者がチラシの裏に書くべき7つの表/もうキャラクター設定表はいらないは小説を書く時お世話になっている。

 そんな読書猿氏初の著作が『アイデア大全 創造性とブレイクスルーを生み出す42のツール』フォレスト出版)だ。古典からビジネス書まであらゆるアイデア創出法に関する文献を渉猟されており、その視座の広さに感嘆した。
 本書の優れている点に関しては既にDain氏fujipon氏けいろー氏といった著名ブロガーによるレビューが出ており、同じように褒めても屋上屋を重ねるに過ぎない。そこで私は本書に収録された42のツールについて、自分なりに整理を試みた。

 

 本書のアイデア創出法は概ね下記の5種類に分類できる。
1普段とは違う視点を導入する。
 P.K.ディックの質問、ルビッチならどうする?、ゴードンの4つの類比etc

2リストを元に考える。
 ランダム刺激、エクスカーション、さくらんぼ分割法etc

3アイデアが出やすいよう自分を制御する。
 フォーカシング、TAEのマイセンテンスシート、ノンストップライティングetc

4思いついたアイデアの書き留め方。
 エジソンノート、セレンディピティ・カードetc

5分析法。
 ケプナー・トリゴーの状況把握、空間と時間のグリッド、事例―コード・マトリクスetc

 この内、4と5は狭義のアイデア創出法ではないので、1~3について整理する。

 アイデア創出法の鍵は、固着を取り除くことだ。そのためには普段とは異なった思考をする必要がある。アイデア創出法とは、普段とは異なった思考をする方法に他ならない。
 PC上でアイデア創出ソフトを走らせている状態を考えると、1は使用ソフトの切り替え、2は入力データの追加、3はバックグラウンドソフトの停止に相当する。

 

1普段とは違う視点を導入する。
 普段とは違う発想法を試みる方法。主に下記の四通りがある。
1-1別人になったつもりで考える。
 尊敬する人、歴史上の賢人、夢想家、実務家、批評家、問題そのもの等になったつもりで考える。

1-2似たものからヒントを得る。
 生物などの異なった分野や先行研究などから似たものを探しだして参考にする。

1-3既存のアイデアの一部を変更する。
 アイデアを複数の属性に分割し、そのうちの一つを他のものに置き換えたり逆転させたりする。

1-4問題を抽象化する。
 問題を抽象化して端的な表現や動詞、形容詞等に置き換え、本質や隠された意味を探る。

 違う視点の導入という点では、擬人的類比・直接的類比・象徴的類比・空想的類比を提示した「ゴードンの4つの類比」が最も網羅的である。

 

2リストを元に考える。
 個人が思いつく量には限界があるので、リストという外部からの刺激を多数入れることで、アイデアをひねり出そうという手法。
 リストの作り方で下記の二通りに分けられる。
2-1課題とは無関係な既存のリストを活用する。
 名詞(動物、職業)、図形、接続詞といったリストやランダムに開いた辞書等から刺激を受けて考える。

2-2課題から導かれる単語に操作を加えてリスト化する。
 課題の属性について列挙したり、解決策と原因を書いたりといった操作を繰り返して課題と関連したリストを作成する。

 

3アイデアが出やすいよう自分を制御する。
 良いアイデアが生まれるような状態になるよう身体的に制御する方法。
 しばらく問題を離れてひらめきを待つ方法、ノンストップで書き続けることで内的批判者をオーバーフローさせる方法、内的もやもやに名前をつけて質問する方法等がある。

 

 分類の中では3が一番興味深かった。アイデアが出やすいよう頭をリフレッシュするという点では、瞑想もアイデア創出法の一種と言えるかもしれない。

 

 

観客は主人公と一緒に叩き落とされる

 

(本稿は『君の名は。』『この世界の片隅に』『時をかける少女』『アナと雪の女王』『ベイマックス』の内容に触れています。核心部分は反転していますが、抽象的にはネタバレになります。)

 最近、アニメ映画で驚愕することが多い。
 もろネタバレになるので反転するが、『君の名は。』で三葉達が三年前に彗星の落下によって死んでいたことが明らかになるシーンや、『この世界の片隅に』で爆弾が爆発して姪の晴美が死に、すずも右手を失うシーンはまったく予期していなかっただけにかなりショックを受けた。この衝撃は、『時をかける少女』でブレーキが壊れた真琴の自転車に乗った功介と果穂が踏切で電車に跳ねられた時以来だ。
 『アナと雪の女王』でハンス王子が国を手に入れるためアナを欺いていたことが明らかになるシーンも、事前にネタバレを食らっていなければ相当驚いていただろう。

 『アナと雪の女王』に関しては「『アナと雪の女王』ハンス王子いい奴説というのを半ば本気で主張してみる。そして思い出した意外な人物」でわっとさんが「もうちょっと伏線を撒いとけ」と指摘されていた。これは同じくディズニー映画である『ベイマックス』と比較すると分かりやすい。
 『ベイマックス』も敵役の正体が意外な人物だが、これはある程度物語に触れていれば予想がつく。主人公達が「○○の正体は××ではないか」と予想している場合それは九割九分ミスリードだからだ。だが、『アナと雪の女王』はどんでん返しが仕込まれている予兆すらないので、予想するのは難しい。
 『君の名は。』は設定の重要な部分を隠しておくことで、『この世界の片隅に』では事件を突然起こすことで、『時をかける少女』では話を急展開させて意表を突くことで、観客に衝撃を与えることに成功している。

 三幕構成の映画では、第二幕の終わりにショックなことが起こり、主人公はどん底まで叩き落とされるのがセオリーになっている(→三幕構成 - Wikipedia)。主人公はショックを受けなければならないので、基本的にその出来事を予期できない。問題は観客がそれを予想できるように作るかどうかだ。

 観客は予想していたが主人公は予想できなかった場合、観客は主人公のことを自分より未熟な弟や妹、もしくは子どものような存在だと感じる。観客は主人公を応援しながら見ることになる。
 一方、観客も主人公も予想できない場合、観客は主人公と同じショックを受け、一緒にどん底へと叩き落とされる。この場合、観客は主人公=自分と捕らえ、主人公の痛みを我が事のように感じる。

 主人公と観客の関係をどのように設定するかには一長一短があり、どちらが正しいというものではない。だが、『アナと雪の女王』や『君の名は。』が記録的ヒットを飛ばしたのを見ると、最近は観客が自分と同一視できる主人公を求めているように見える。マジョリティの観客は応援より共感を求めているのではないだろうか。

 

見るなの禁止と量子論――君の名は。感想 - 東雲製作所

重すぎて受け止めきれない――この世界の片隅に感想 - 東雲製作所

大賢は愚に似たり――時をかける少女とDETH NOTE

 

 

 

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作らずにはいられない――シムシティ感想

 シムシティ ビルドイットは古典町づくりシミュレーションゲームスマホ版である。タブレットを購入したのを機にインストールし、時々ビルを建てていたのだが、オフラインでもプレイできると分かってからは取り憑かれたようにプレイしている。時間が空くとタブレットを手に取って金属を生産してしまう。

 シムシティでは住宅を建設、高層化して住民を増やし、レベルアップすればする程作れるものが増える一方、住民からの要求も高くなる。それがリアルな部分と奇妙な部分が混在していて面白い。
 高層ビルが立ち並んでいるのに、下水道がないので整備して下さい、という要求が出た時は笑ってしまった。新宿ばりの高層ビル群なのにトイレはくみ取り式便所だったのかよ、と苦笑しながら町の中心部に下水処理施設を作ったら「他にも場所はあるのに何て市長だ!」と大ブーイングを食らった。そういう所はリアルなのか。

 レベルアップする度に電気、水道、下水、ゴミ処理、消防、警察、病院と住民からの要求が増える。一方、一定以上のレベルに達すると税金を取れるようになり、時間の経過と共に税収は着実に溜まっていく。従って、出来るだけ不熱心にプレイする程金が貯まる。だが、都市を発展させたいという欲求に逆らえず、ついつい住宅を拡張して人口を増やしてしまう。

 シムシティをプレイして感じるのは人間の根源的な創造欲求は非常に強いということだ。子どもは毎日のように絵を描いたり積み木や土で何かを作ったりしている。
 しかしながら、大人になると作ったものが世間的にはしょぼいものでしかないということに気づいてしまう。頑張っても恥ずかしい出来のものしか作れない。労多くして益少なしということが、人間の創作欲求を抑えこんでいる。

 シムシティでは少ない労力で素晴らしいものを作ることができる。シムシティでビルを建てる労力は画面をタッチしてフリックするのを繰り返すだけだ。
 一方、出来上がる都市は細部まで作りこまれている。作り上げた町の中では、車や人間が常に動き回っている。しかも、ランダムに動いているのではなく、ちゃんとこのビルからこのビルへ向かっているという風に、自然な動きをしている。
 ビルの配置を考えるのは人間だが、デザインはプログラムが自動で決めてくれる。そして何と言っても素晴らしいのが朝昼晩の景色の変化だ。夜景も綺麗だが、さらに美しいのが明け方だ。茜色に染まったビルが長い影を落としている光景はほれぼれするほど美しい。

 労力と生産物のバランスを変えるだけで、アホみたいに作り始める。人は作らずにはいられない生き物なのだ。

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プロデューサーの奇妙な業務――デレステ感想

 アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ(以下デレステ)は奇妙なゲームだ。プレイヤーはプロデューサーになってアイドルを育成するのだが、主に行うのはリズムゲームなのだ。つまり、アイドルプロデューサーの最も大切な業務がアイドルがライブしている横で鈴をシャンシャン振って盛り上げることであり、どんなに人を見る目やマネジメント力、対外交渉力があっても、リズム感がないと駄目プロデューサーになってしまうのだ。どんな設定やねんと突っ込まざるを得ない。

 また、デレステをやって驚いたのがレッスンだ。レッスンはアイドルのレベル上げのために行うのだが、その際、レッスンパートナーに選ばれたアイドルは消えてしまうのだ。何だその恐ろしい設定は。つまりレッスンを行う度に次のような光景が繰り広げられているということではないか。

プロデューサー「今日は○○のレッスンを行う。レッスンパートナーは△△だ。」
△△「そ、そんな。それってレッスンが終わったら私はクビってことですよね。お願いです。クビにしないで下さい。何でもしますから。」
プロデューサー「うるさい。お前は○○成長のための糧になるのだ。」
○○「ごめん、ごめんね。△△ちゃん…」

 こんな冷酷なことはしたくないので、できるだけレッスンは行わずにプレイしていたのだが、先日、アイドルの数が定員の100名に達してしまったので、泣く泣くレッスンを行った。レッスンパートナーには重複しているアイドルを選んだのだが、そもそも同じ人が複数人事務所に所属しているというのは一体どういう状況なのか。同じモンスターが複数いるのは分かるが、同じアイドルが複数人いるのはおかしくないか? タイムリープでやってきた未来人なのかも知れないが、作中でそのような説明は一切なされない。既存のパズドラとかのシステムをそのまま人間に当てはめているため、奇妙なことになってしまっている。

 肝心のゲーム内容だが、シャンシャン鈴を振っているだけで、フルボイスのアイドル達の親愛度が上がっていくのはとても楽しい。お気に入りの三村かな子嬢からの親愛度がMAXになったので、大満足だ。

 デレステは重課金者が多いと聞いていたので、課金しないと「ちっ、しけてやがる」などとアイドルから冷たくあしらわれるのかと思っていた。ところが実際は無課金のへぼプロデューサーにも関わらず、好みのアイドルが親切にしてくれて、しばらくプレイしているだけで全幅の信頼を寄せてくれるのだ。これ以上何を望むのか全然分からない。

cinderella.idolmaster.jp

エンタメとして評価すべき――罪と罰感想

(本稿は『罪と罰』のあからさまなネタバレを含みます。)

 『罪と罰』(ドストエフスキー著、工藤精一郎訳、新潮文庫)は人間の罪に関する深い洞察を含んだ高尚な純文学であると思われている。例えば、下巻の裏表紙には「ロシア思想史にインテリゲンチャの出現が特筆された1860年代、急激な価値転換が行われる中での青年層の思想の昏迷を予言し、強烈な人間回復への願望を訴えたヒューマニズムの書として不滅の価値に輝く作品である。」と紹介されている。

 作中で主人公ラスコーリニコフは独自の犯罪理論を論文として発表している。その理論とは「人間は自然の法則によって凡人と非凡人に大別される。凡人はこれは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料である。一方、ナポレオンのような非凡人は古いものを破棄するためにぜったいに犯罪者たることをまぬがれない」というものだ。
 これは今日的視点で見れば単なる中二病である。1866年に中二病の出現を予言したという点ではすごいのかも知れないが、十年後にラスコーリニコフに見せたら恥ずかしさのあまり床をのたうち回るような代物であり、大長編の主人公が延々と固執するほどのものだろうか。おかげで主人公に全く魅力がない。今まで読んだ小説の中で最も魅力のない主人公だと言っても過言ではない。

 しかもこれだけ延々と引っ張っておいて、ラスコーリニコフは献身的に尽くしてくれるソーニャの愛のお陰で救われました、というオチだったので本を壁に叩きつけたくなった。そりゃあ誰だってソーニャがいて支えてくれたら救われるけど、そんな人はいないから苦しんでいる訳で、ご都合主義にも程がある。

 全体的に作者はラスコーリニコフを甘やかし過ぎだ。途中でルージンが登場し、対決して勝つことでラスコーリニコフの方が人間として上みたいになっているが、ルージンは自分の金で人に恩を売って自尊心を満たしたがっているのに対し、ラスコーリニコフは親からもらった金で同じことをして金が尽きたら強盗殺人をしている訳で、人としてより最低なのはラスコーリニコフの方だろうと思ってしまう。

 本作では殺人の罪をいかにして償うことができるのかという問題に関しては何の回答も示されていない。ただラスコーリニコフが何の反省もないままに「考えるな、感じるんだ」という境地にたどり着いて心の平安を得ただけだ。そこに失望を禁じ得ない。

 一方、エンターテイメントとしては無駄話が多いせいであまりに長すぎるものの、面白い所はものすごく面白い。すぐに仕事を投げ出し妻に殴られて喜んでいるマゾおじさんマルメラードフの駄目っぷりがすごいし、殺人シーンの悪夢のようなビジョンはショッキングだし、ラスコーリニコフポルフィーリィの対決シーンは『すべてがFになる』冒頭ばりの緊迫感だし、ロリコンのスヴィドリガイロフがドゥーニャにストーキングする様はスリリングだし、葬式で集まってきたのがどうしようもない連中ばかりだというシーンは作者がノリノリで書いているのが伝わってきて楽しい。キャラ立ちがすごいので何を書いても面白く、滅茶苦茶な展開でも豪腕でねじ伏せられてしまう。

 『罪と罰』は深遠な純文学としてではなく、エンターテイメントとして評価すべきではないだろうか。

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

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罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

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回転寿司の支配者

 ゴールデンウィーク。出かける所のない私は回転寿司屋に行った。11時頃とあって客はまばらだ。その店ではカウンター席とボックス席が向かい合わせになったレーンが二つある。私が案内された席の右側にはおじいさんが、私とおじいさんの向かいにはそれぞれ家族連れが座っていた。
 レーンの流れはおじいさんが最上流に位置する。カウンターには十人くらい座れるのだが、まだ客が少ないため、レーンは私の席の少し下流でせき止められ、ショートカットして向かい側のレーンに向かうようになっていた。
 やがておじいさんが会計を済ませて席を立ち、代わりに私の下流側におじさんが座った。それにより、私は隣のおじさん及び向かいの家族連れ合わせて九人の最上流に位置することとなった。もし私が流れてくる良いネタを全て取ってしまったら、九人はナスの寿司やかっぱ巻きとかしか取れなくなる。つまり私がこのレーンの生殺与奪を担った支配者になったということだ。
 高揚していた私だが、じきに全然支配者ではないことに気づいた。おじさんも家族連れもレーンを流れる寿司には目もくれず、注文ばかりしていたからだ。
 何たる不見識! 私は憤慨した。
 回転寿司は壁の向こうの板前との対話である。流れてくる寿司は板前からの提案。客はまずはその提案に対し、何皿か取って応えるべきだ。客が取った皿を見た板前は、これとこれを食べたということは、次はこのネタはどうか、と考えて新しい寿司を流す。それによって客と板前の対話が成立するのだ。
 レーンの寿司を見もせずにいきなり注文するような客は、本屋に入って品揃えを見もせずにいきなり取り寄せを頼むようなもの。自らの意思を盲信した行為だ。回転寿司は客の意思と板前の意思、双方が奏でる協奏曲であるべきではないだろうか。
 何皿か食べた所で、私はそろそろ注文しようとタッチパネルに手を伸ばした。だが、目の前を魅惑的な寿司が次々と通過し、なかなか注文に移れない。
 左隣のおじさんは五皿だけ注文し、さっと席を立った。一方の私は、そろそろお腹もいっぱいだし止めようとした所で、出てきた豚カルビ寿司と厚切り鯖寿司に惑わされ、十一皿も食べてしまった。回転寿司の支配者は隣のおじさんであり、私は単に板前に踊らされていただけなのかもしれない。